2019年11月12日火曜日

モラルハラスメントは幼少期の悪影響

こんにちは。
ソウス

それによると、
子どもは親に認められようとして自ら自己否定を重ねる
とあります。それは、
子どもが親と同化している
からなのです。自分を失うほどの強い自己否定にさらされ続けた結果、親から見れば子供はいつまでたっても子どものまま、子どもから見ればいつまでも親のままとなってしまいます。そして、そういう人は、
成長するにつれて人に合わせることばかり学習し続けてきたため、自分の上に合わせるべき他人が上書きされ、自分を見つけ出すことがままならない
のです。

このような人が大人になると大変です。
自己肯定感を育てるのに、ものすごい労力が必要になります。
あるいは、徹底した自己否定を繰り返し、さらに周囲の人を引きずり込むようになります。
実は私の両親、とりわけ母親がそのような人です。ましてや母親の親族で生涯独身を貫き、最後は自殺を遂げた人までいます。

いわゆる「毒親」に分類される厳しすぎる親は、そのような育てられら方をしたゆえ、そうなってしまった例が多数あります。これを被害者扱いするのは簡単ですが、そこから立ち直るのはよほどのことがない限り困難です。結果、いつまでも自分探しを続けなければならなくなるのです。自殺してしまった私の叔母は、自己否定に自己否定を積み重ね、自分探しをすることもなく、先祖からの呪縛に縛られたまま絶望のうちに生涯を終えたのでしょう。

私もそうなりかけました。というより、親、とりわけ母親がその闇に引きずり込もうとしているのです。母親は病に苦しんでいますが、私は原因はそこだと考えています。対抗策として「あれ」があるのです…

そのような状況の人が自己肯定感を育てる、唯一といってもいい方法が、
自分の好きなものをどこまでも追いかける
ことです。こちらで詳しく述べます。


2019年8月28日水曜日

(復刻)正直なところ…私はもう風船を見たくない

こんばんは。この記事は2013年7月25日の「旧ふうせんだいすきおっさんのひとりごと」を復刻したものです。6年前を振り返り、改めてアップします。

おはようございます。

先週末に実質最後の仕事を終えたのち、なんだか気が抜けたようになった。

来週は日本最大のバルーンの祭典、JBAN Conventionだという。
私は正直、今年も行くかどうか迷っている。
というより、セミナーのラインナップや空席状況などを見ていると、一つの傾向が浮かび上がったような気がする。

ツイスト系・ギフト系といったものの実用性が高いセミナーの人気が高い。

事実これらの分野はまだまだ発展すると私は思う。
一方演出系やデコレーション系の苦戦が目立つ。

もはやこれらは頭打ちなのかもしれない。

市場の伸びもこれ以上見込めず、ヘリウムガス不足傾向の定着という状況下では、新しいことにもチャレンジできない…

私が引退を決めた最大の理由がこれである。
今後おそらく、私はバルーンをビジネスとして取り組むことはまずない。

バルーンギフトは他人の気持ちを読むことがうまい人が仕事にしていくことになろう。
フローリストもギフト系でそのような人材が重用されるけいこうにあるという。
ツイスティング系は本当に明るく、笑顔が素敵、「華」がある人が身に着けるべき技術になるような気がする。
いずれにせよ、私の出る幕はもはやない。

私はすでに最低1年はバルーンの世界から遠ざかるつもりである。
全く畑違いの仕事に就きたいと思っている。
全くのゼロからの勉強になるのは間違いない。
場合によってはもう二度と戻ってこないかもしれない。
というか、その可能性は高い。
キャリアリセットを私は希望している。そうなると私は完全な転進を図ることになり、全く違う自分に生まれ変わることになる。
正直、バルーンアーティストであった自分を否定したいぐらいなのである。

事実あるところには、バルーンアーティストであったことを隠した履歴書と職務経歴書を提出し、12年もの間フリーターとしてアルバイトを転々としていたというようなことを面接で話したぐらいであった。もちろん不採用だったが。

私が戻ってこようにも、そこに私の居場所がない、というぐらいにバルーン業界が変化していたら、また面白い、と思う。

そうなるかどうかわからないが、3年後、2016年ぐらいにどのようにバルーン業界が変化しているか、大いに見ものである。

今週中に3年後のバルーン業界の予想を記事にすることにする。

3年後のバルーン業界の変化を見るのが本当に楽しみだ…3年後にこのころの予想を見て、当たっているのもうれしいし、外れているのもまた由である。

が、私はその頃この世にいないかも…

2019年8月15日木曜日

終戦記念日に思う

こんにちは。
令和最初の8月15日、先の大戦の終戦記念日は、台風による嵐のさなかとなりました。
動いている交通機関はほとんどなく、午後からはいよいよひどくなることが予想され、街はゴーストタウン状態です。

そんな中思うのが、引きこもりや家庭内暴力、さらに統合失調症発症などの問題のそもそもの原因。
突き詰めていくと
第二次世界大戦前後の日本の在り方
が背景にあるような気がしてきました。

この時代の日本は、精神論で動いているようなものでした。典型例が
竹槍でB29を撃墜させる
というものでした。精神論はとりわけ陸軍で強かったようです。だからインパール作戦のような情けないことが起きるのです。

しかし、この精神論が日本の高度経済成長の原動力となったのもまた事実。

その高度成長は昭和最末期にバブル経済を引き起こし、そのバブルが崩壊して日本は厳しい国際競争にさらされることになりました。平成とはその中での変化の時代で、価値観は大きく変化していきました。当然「家父長制」は時代錯誤(「時代遅れ」という言葉は生易しすぎる)となり、「ほめる」ことだの「自己肯定感」だのといったものが子育ての本流にとってかわられつつあります。
一方で少子化という別の問題も引き起こし、高齢者の年金を支える財源が不足しているという社会問題も生じているのが現実ですが、そこまで予測しきれなかった高度経済成長期の政治および行政の誤謬はいかんともしがたいものがあります。
さらに「超高齢化社会」「多死社会」によって、介護人材から火葬場に至るまで、大幅な不足が見込まれている現状があります。競艇(ボートレース)を収益源としてあらゆる福祉事業を支えているある財団は一時期「船上火葬場」の構想を立てたほどです。先日私は「ターミナルケア」(終末期介護)について勉強する機会があり、また最新鋭型納骨堂を見学させていただく機会もありましたが、高齢化社会においてはこれらは避けて通れないと思います。
※私は「バルーン宇宙葬」は断固反対しています。これはバルーン、すなわちゴム風船の特性が関係しています。ゴム風船は基本地上10000メートル以上の成層圏で破裂し、粉々になりますが、突発的に発生する積乱雲などによってそこまで上昇しないこともあります。そのような風船が時折地上に落ちて、拾った人から手紙が届くなどの交流に至ることもありますが、バルーン宇宙葬で使った風船(もともと直径約2メートル程度の巨大なもの)が庭先に落ちて、中から白い粉末が出てきて、鑑定したら人骨を粉砕したものだった…という状況を考えてみてください。遺骨をゴミとして扱うのと同じだと私は考えます。遺灰を海上に流す(=散骨)方がよっぽど良いです。
かくいう私は火葬場に「自分の遺骨は焼き切りにしてほしい」と事前にお願いするつもりです。焼き切りの場合、遺骨は灰となり、収骨は行われません。当然墓も必要ありません。私の両親は樹木葬を希望していますが、私は樹木層も散骨もお断りし、それこそゴミと同じ方法で処理してほしいです。ちなみに火葬場で余った遺灰は「特別産業廃棄物」として扱われるそうです。

なんだか「毒親と戦争」について論じるつもりが、高齢化社会と葬儀に論点が変わってしまいました。
しかし、時代の流れとともに「躾」といわれていたものが実は「虐待」だった、というのが現実なのではないでしょうか。

2019年8月16日追記 私と同じような主張をしているコラムを見つけました。
「関東自立支援就労センター」のページ
このページの左側にあるコラムの記事のほとんどが私の主張と同じです。


2019年8月14日水曜日

不適性排除社会、どう対応するか

こんにちは。
ソウス「不適性な人をひそかに排除する社会の到来」

内側で差別をなくそうとするほど、ハイリスクな人を避けようとする反動が形成される。人間の生まれ持った性質に迫るような「選別」が、現代社会の公私両面で広がっている…

詳細は上記ソウスを読んでいただくとして、冒頭の要約部分を引用させていただいた。
私はかなり早い段階で婚活市場から退出している。というか、30代のころは経営を軌道に乗せようとして婚活どころではなく、40代になったら精神疾患から発達障害判明となり、今度は婚活市場から事実上排除されるという状態になっている。
加えて私の場合、仮に結婚しても配偶者を不幸にするだけだと思っている。母方の叔母の「緩慢な自殺」は、母方の家系に大きな誤謬があったことの証であり、それに伴う不幸な結果といわざるを得ない。このような問題が大いにある家系は子孫を残さないのが世のためだと私は考えている。私は
両親より早く死んではいけない
両親の供養が済んだらいつ死んでもかまわない
と考えており、すでに
終活
を始めている現状がある。

むしろ注意すべきは介護問題で、父親か母親のいずれかが死んだらすぐに私は「介護臨戦態勢」に入ることになる。どう考えても私の両親は、片方が死んだら介護が必要な状態になるのは目に見えている。このような状態になった時、まず出番が来るのが
地域包括支援センター(地域包括)
であり、
ケアマネージャー(ケアマネ)
である。すぐに「地域包括→ケアマネ」のルートを確立し、支援計画を組んでもらう必要が出てくる。

一方で私はクローズでの一般雇用は困難と判断している。近いうちに一度受けてみようと思うのが
不適性検査スカウター
おそらく、私は「不適性」と判断されるに違いない。というか、すでに別の診断で、そういう診断が医学的に出ている。
私の両親は、この現実が分かっていない。というか、
臭い物に蓋をする
ようなことをしている。
だから全く新しい形態の就業を目指すことにしている。仮に転職活動をすると、泥沼にはまる危険が極めて高い。理由はこのブログで何度も述べているが、一言でいえば
日本の雇用が「メンバーシップ型雇用」である
故の問題だと私は思う。
ソウス「転職=即戦力幻想の先へ」

それによると、私がたびたび主張しているように、
アンラーニング(学習棄却)ができなければ、転職が困難
という現状が厳然として存在する。

私は転職しようとする場合、
完全にイエスマンになりきる
洗脳される
個を捨て、まっさらな自分になる
以外に道がないのが現状。それを可能とするのが、実は存在することが最近になって分かった。ただし、それは
カルトレベル
のものである。
こういうところや、こういうところ
前回の記事で
子捨て山
と私はこれらの施設を評したが、本当に私を変えてしまいたいのなら、こういうところに入れるべきである。というか、
それが現実である。
現実が分かっていないから、夢物語を平気で言うことができるのである。

2019年7月20日土曜日

自立を目指すはずが…いわゆる「引き出し屋」問題について

ご無沙汰しています。
最近、このような記事がネット上で出回っているのを目にしました。

ソウス1(2018年12月16日、共同通信配信)
ひきこもりや不登校の人の自立支援をうたう神奈川県内の全寮制施設で、入所者が抜け出すトラブルが相次いでいることが16日、分かった。昨秋以降、10~40代の男女計10人が福祉施設に保護され、親元に戻った1人を除く9人は所持金がなく生活保護を受けている。支援する弁護士は「スタッフが突然自宅に現れ、困惑した状態で入所に同意するまで説得を続けるのは自己決定権の侵害だ」と指摘。施設側は「本人が納得の上で入寮同意書にサインしており、強制ではない」として主張が対立している。
こうした自立支援施設は、法的な設置根拠や規制がないため、トラブルが起きやすい側面もある。

調べてみると、「ひきこもり自立支援施設」なるものの問題のようです。

この問題について、このような記事も目にしました。
文章が長いので、引用は最小限にとどめるが、この中に非常に気になる一文がありました。
「自分の育てたいように子供が育たないと考える親が、施設に入れる。『子捨て山』のようなもの」
あまりのひどさに消費者庁まで出てくる始末です。
消費者庁も、民間の自立支援施設の契約や解約をめぐるトラブルについて注意喚起をしている。
精神科医の斎藤環・筑波大教授はこう話しています。
「全国の自立支援施設には、ひきこもりの当事者だけではなく、他の精神疾患を抱えている人たちもたくさんいて、適切な治療を受けていない人も多い。なかには、自立支援施設に入れられたことで精神的なショックを受け、フラッシュバックに悩む人もいます。本人の意思に反して施設に入れる行為には合法性がなく、自己決定権の侵害であり、ひきこもりの治療にも逆効果でしかありません
厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」にもこう記されています。
入室を拒否する当事者の部屋へ強引に侵入することは望ましくない
結果どうなるか。
親子関係の悪化、というより泥沼化は必至
です。

かくいう私も深刻な親子関係を抱えています。
ところが私の場合、深刻な親子関係の根底の原因を突き止めてしまいました。その根底は、
親もまた苦しめられていた
ということでした。そして、その背景にあるものが
薩摩・鹿児島の独特の風土と第二次世界大戦及びその後の社会混乱
でした。これはもはやどうしようもないものです。
この「風土」「歴史」という、どうしようもない「過去」は、受け入れるよりほかありません。そしてそれにどう向き合い、正しく対処するかが重要なのです。

それを安易に考えると、悲劇が起きます。

私は、はっきり言います。
親の望むように育っていません
だから何が起きているか。
親の知らないところで自立している
親は本当の自分を知らない

すでに私は親に対してあきれ果て、失望しています。
なぜか。
親としてやってはいけないことをしようとしてしまった
からなのです。それは…
子を「浪費者」として、「準禁治産者」登録し、自己決定権をはく奪しようとした
ということです。

この行為は到底許されることではありません。私の場合、
「なぜ両親はそのような愚挙に走ったのか」
ということから考え、突き詰めた結果、先祖代々、さらに風土的な問題という根底に原因があることを突き止めたので、あきらめがつき、犯罪を犯すこともなかったのですが、根底の原因を突き止める前に私が犯罪に走って塀の中に入ることもあり得ましたし、自害していた可能性もあります。
私が根底の原因を突き止めているいることを、父親は知っています。しかし母親は知りません。なぜか。
父親によれば、
「それを知ったら母親が自殺する」
からなのです。現に母方の親族で自殺者が出ています。
本当のことを知らない母親が、安易に上記のような「引き出し屋(=引きこもり自立支援施設)」に手を出すことに対し、私は警戒しています。そうなると決定的です。
本当のことを知ると母親は自ら命を絶つ危険がある
本当のことを知っているから私はあきらめがついている
父親は本当のことを知っている
母親の精神障害の本当の原因は先祖代々かつ風土的なところにある
万が一母親がかかる暴挙に出た場合、私は「法的に考えられる手段て対抗する」ことにしています。というか、それ以外に方法がありません。
悪いことに母親は「戦前回帰」を主張していますが…(石原慎太郎信奉からもわかる。加えて父親も「自民党より右=戦前回帰を主張している」)「時代錯誤」という別の問題がある。だから私は「道に外れた親に泣いて従う」しかないという儒教の教えをみっちり刷り込むことになる。
「引き出し屋」を使って「子捨て山」に預けようとする親の背景をしっかり吟味したほうが、引きこもり当事者にとって解決になることもある、と私は言いたいです。それでもなお、というときに「ひきこもり自立支援施設」の利用を検討すべきです。

2019年6月30日日曜日

本当に狂っている人は自覚がない

こんにちは。
久しぶりにこちらに投稿いたします。

私の両親は、見出しのとおりである。
明らかに世間の常識を逸脱している

長年その言動を見てきた私からすると、昔、すなわち昭和の時代はそれが常識だった。平成になってから少しずつ変わってきた。

一方で、今月初めに信じがたい事件が起きた。
元農林事務次官が引きこもりの息子を殺害…

これについては、さまざまなコメントが出ているので、それを引用することはしない。
ただ、私の両親は私を殺そうとしたことがある。詳細については述べないが、これは事実である。

もっと言えば、中高年の引きこもりが推定で61万人。これは鹿児島市や船橋市の人口に匹敵する。
政府は「中高年正社員化計画」を立案して、中高年の正社員を増やすような政策を立てているが、私から言わせると、
そんなの無駄だ
と思う。

これらの原因、すべては
日本の歴史
にあるといっても過言ではない。
明治維新、西南戦争、富国強兵…大日本帝国における軍部の暴走、第二次世界大戦…荒廃した国土の復興、高度経済成長、オイルショック…一時は世界第二位の経済大国まで成長した日本、もう成長は望めない、一方で戦争から国際協調の時代へ…価値観が変化するのは当然のことである。
如何にして価値観の変化に個人が対応するか、が問われているのが現状。

それを嫌がるのが、「老害」と呼ばれる人たち。
これらの人たちは、現実から目をそらそうとしている。
その結果、「自覚なく狂ってしまう」ようになる。

2019年3月27日水曜日

親孝行は子どもが果たすべき義務です!?

こんにちは。
今日はソウスから引用。

…元々の意味の『親孝行』っていうのは、もっと強烈な意味を持っています。
『親孝行』の語源でもある、儒教の中心的教義である『孝』。これは、「親には絶対服従」です。特に、父親です。
だから、本来の『親孝行』っていうのは、「親を敬い、親に服従し、親に感謝しなければならない」っていうものです。子どもの意志は関係ありません。義務なんです。
…(中略)…
本来の『道徳』っていうのは、親や、君主が市民を支配するために、学ぶべき教えとして体系化したものなんです。「この教えを理解できたものは、地位を上げてやる」みたいな感じでね。
つまり、『道徳』っていうのは、宗教思想であり、宗教的なルールなんです。「人であれば、誰でも学んでおくべきもの」なんていうのは、幻想にすぎないわけです。宗教思想っていうことは、真理ではなく、一つの信念であり、信仰です。
だから、『道徳』の言葉は、儒教で語られる義務であり、ルールなので、「べきねば論」が全てを占めます。僕らに選択の余地は残されていません。道徳に背けば、罪悪感に苛まれます。
この道徳の中に、『親孝行』も含まれますよね。ということは、「親には、育ててもらった感謝や、恩返しをしましょう」っていう生易しいものじゃなくて、「親には、育ててもらった感謝や、恩返しをしなければならない」っていうけっこう厳しいものが本来の意味です。
…(中略)…
『親孝行』や、『親不孝』っていう言葉って、親自身にも染み付いている言葉です。だから、「親には感謝すべきもの」という義務化された思想が残っていると、「これだけしてやったのに!!」っていう想いが湧きたってくるわけです。
でも、「これだけしてやったのに!!」っていう想いって、その想いを浮かべることが悪いわけじゃないんです。
『親孝行』や、『親不孝』の発想が、親目線で言えば、「親なんだから、これくらいして当たり前」「親は、子どものためにいろいろしてあげなければいけない」「子どもの成長は、親の責任」みたいな、親としての使命感というか、義務感に繋がってきます。
『孝』という発想は、家系や、子孫の繁栄を目指しているから、
1.祖先崇拝
2.父母の尊敬
3.子どもを作る
っていう感じで、自分や、その家系を存続していこうという目的を持っています。
家系の存続を考えれば、「子どもをちゃんと育てよう」という意識が出てくることも自然な発想ですよね。
で、「子どもをちゃんと育てよう」の『ちゃんと』は、儒教的な『道徳』や、『孝』の考え方になるわけです。
引用ここまで

この考え、私の考えに非常に近い、というかほとんど同じなので、引用させていただきました。
私の考えと一致するものは色を変えて強調しています。

一方で、私はこう信じています。

よしんば親が過ちを犯せど、子どもは泣いてそれに従わなければならない

私は「たとえ親が過ちを犯していても、子どもはそれに従う義務がある」という考えを根幹に持っています。その義務を果たせないから、今こうやって悩んでいるのです。

ではなぜ、義務が果たせないのか…
「私が親に対する義務を果たそうとすると、自分が目指すべき生き方と大きく齟齬をきたしてしまう」
言い換えれば
「私自らが自分の人生を選択することはすなわち、両親に対する背信行為である」
もっといえば
「親不孝は犯罪に等しく、万死に値する」
とまで考えています。
結果、私は「どうしようもない二律背反、ジレンマ」に陥ってしまうのです。儒教の道徳、倫理に従おうとすると自分の人生を捨てて、親の言うことに全面的に従う人生を歩むことになり、一方自分の望む生き方をすると、親を見捨てる(あるいは骨までしゃぶりつくす)ことになってしまうのです。

これに私の家族は全員苦しめられています。私の母親も父親も、自ら死を選んだ叔母も、もう一人の叔母も、さらには私のいとこ(長いこと引きこもりだったらしい)も、全員が苦しんでいます。
これは「負の連鎖」以外の何物でもありません。

先ほどのソウスからもう一度引用します。

もしも、『親孝行』が子どもの善意であり、子どもの自由意志に委ねられたものであれば、『親不孝』なんて言葉はいりません。本当に、子どもが親に感謝をしているんだったら、義務がなくても、ルールが無くても、自然の欲求として、親に感謝しますよね。でも、そんな自由意志に任せてしまうと、子どもによっては、親に感謝する子と、しない子が出てくる。「それはマズイ」っていうことで、『親孝行』という言葉を作って、義務化する必要があったんです。
なぜ、義務化する必要があったかと言えば、
親→子→孫
という順序で、支配構造を作りたかったから、です。
引用ここまで
たびたび主張する「国家を安定させるために作られた支配構造」の結果の「儒教(=朱子学)の施政者によるつまみ食い」であり、「家族の絆に頼ろうとして自らの責務を放棄する行政」のよりどころでもあるのです。そのやり方がグローバル化及び情報社会の深化、そしてAIなどの技術の進化などによって通用しなくなっているのが今の状況なのです。
その結果、「厳しすぎる躾」は「虐待」になり、「幼少期の子育てが重要」になってくるのです。
一方で、これは一種の「優生思想」であると同時に、「自然淘汰」にもつながると思います。私の母方の家、すなわち私の祖父母、さらにはその先祖に大きな問題があると私は考えており、その背景には鶴丸城下の郷中教育も影響していると考えています(郷中教育は本来そのようなものではなかったはずなのですが)。そのため、私は既に生涯独身を決めています。

結局のところ、幼少期に厳しすぎる躾を受け、その悪影響を受けた人たちが結婚できず、家系断絶
になる、と私は見ています。私は
このような問題が大いにある家系は断絶したほうが世のため
とまで考えるようになりました。そうなると、私が果たす義務は以下の二つだけになります。それは
両親より早く死んではいけない
両親を殺したり、暴力をふるってはいけない
ということです。たとえ齟齬が生じても
親孝行の義務はない
のです。



2019年3月24日日曜日

「発達障害」と「愛着障害」…その違い

こんばんは。
最近、私は生まれつきの自閉症(=「発達障害」=「アスペルガー症候群」)に加えて、「愛着障害」ではないのか、と思い始めています。

「愛着障害」の症状としては…(ソウス

小さいうちは“おとなしく育てやすい子”ですが、幼稚園、小学校に入学してから問題行動を起こすようになります。
初めての集団生活の中で友達を叩くなど多少の喧嘩は誰しもありますが、その衝動的・破壊的行動がいつまでも止まず激しくなります。
母親から得られなかった愛情を他の大人に求めて、保育士が他の子に関わっているとそれを妨害するように机をひっくり返したり、物を壊したりすることもあります。
表面的なものは収まっても、大人になってから、次のようなケースも起こります。
例えば…
  • 特定の人と親密な関係が築けない。
  • 恋愛で恋人が離れていかないようにわざと相手を困らせるようなことをしてしまい、失敗する。
  • 人と親しい関係になるのがわずわらしいと考える
  • 他人からの評価を異常に気にする
  • 自分が嫌いで自己肯定感が低い
  • 人に頼ったり甘えることができない
  • 他人にSOSを出して助けを求めることができない
  • 自分の気持ちは押さえて相手ばかりに合わせてしまう
  • 拒否されたり傷つくことに敏感
  • 嫌われないかといつもビクビクしている
  • 見知らぬ人にも近寄りすぎる
これらは幼い頃に親から愛情を与えられなかった経験が、他人との関係性にまで影響を及ぼしている例です。

かくいう私ですが
赤字は強い傾向を示しています。
橙字はややその傾向を示しています。
紫字はかつてその傾向が強かったですが、最近やっと克服できたものです。
緑字はどちらかといえばそうではないです。

そして、「発達障害」と「愛着障害」は併発しやすい(特に「アスペルガー症候群」の場合)という記述もあります。ソウス

自閉症の子どもは、親の後を追わなかったり、一人で寝かせていても平気だったり、乳幼児期に「あまり手がかからない子だった」と言われることがあります。
そうなると、母親は「おとなしくしている扱いやすいいい子」と思ってしまい、一人遊びをずっとさせることもあります。結果、愛情不足になってしまうこともあります。
また、反対にちょっとしたことで火がついたように泣く敏感な子どももいます。こうなると「とても育てにくい子」として育児に悩みます。
更に少し大きくなってもこれが自閉症だと気づかれぬまま、幼稚園、保育園に入園し、ひと時もじっとしていなかったり、集団行動がとれないと場合、「どうして、みんなは出来ているのにあなたは出来ないの!」と激しい叱責をしたり、厳し過ぎるしつけをしたり……。
その結果、子どもには不安感が増し、結果的に愛着障害と同じような状態に陥ることもあります。
また知識のない母親の中にはその特性を理解できず、障害を受け入れることができずに中には虐待してしまうケースもあります。
実際、発達障害の子どもは健常児と比べて4倍も虐待を受けるパーセンテージが高くなっていると言われています。
そうなると“発達障害+愛着障害”の両方が重なることになります。

同じソウスには、「自分がこうなったと自覚している場合の対処法」もあります。

どんなに小さなことでもいいので、“自分が認められる体験”を今から積むのです。
幼いころに得られなかった“人から大事にされる、認められる”という経験をこれから積んで、自分に自信を持てるように回復させるしかないのです。
自分が他人との関係性がうまくとれず悩んでいたとしても、過去に時間を巻き戻して親に“育て直し”をしてもらうことは不可能です。
(中略)
親を反面教師にして自分がされていないことをわが子にすることは、なかなかハードルが高いかもしれませんが……。わが子が将来苦しまないようにするためにも、しっかりと親子の絆を今から深めていきましょう。

私の場合、「あれ」がまさに「自分が認められるための体験を積む手段」となったのです。「あれ」がなかったら、今頃自ら命を絶ってこの世に存在していないか、親を殺して塀の中にいる(あるいは国家によって殺処分されている)かもしれなかったのです。

私はこれからの人生、私と同じような苦しみを味わう子どもたちを少しでも減らすことに尽力したいです。そのために「あれ」を続けます。

しかし、それを許さないのが私の両親です。

7年前、2012年、それを力ずくで奪いました。母親は自殺未遂をしてしまいました。聞くと自殺未遂は2度目。私が幼少のころ、それこそ自閉症の原因がわからず、もがき苦しんでた頃、一家心中を試みたそうです。父親が止めたそうです。
自殺未遂の話を聞いて、私は「あれ」を辞める決断をしました。

その後、母親の家に「負の」家系譜が存在していたことが分かりました。母親には兄がいて、母親が生まれる前に栄養失調で亡くなっていたとのこと。亡くなったのが昭和21年、1946年のことでした。この年は2月に預金封鎖、3月に桜島大噴火(昭和噴火)と続いており、それまで鶴丸城下の御用商人の流れを汲むゆえ富裕層とされた一方、薩摩藩故、郷中教育の流れをくむ厳格な男尊女卑の教育の影響をも受けていた母親の家は一気に貧しくなったと聞きます。
それゆえ、母親は「毒親」になってしまったのかもしれません。母親の妹である私の叔母は、生涯恋愛もせず、結婚もせず、母方の祖父母に仕え、祖父母亡き後は自分の人生の価値を見失って「ゴミ屋敷」化してしまい、最後は救急車を呼べば助かったにもかかわらず救急車を呼ばずに自ら座して死を選んだのです。
これで私の両親は
「自分の人生は親の言うとおりに従う」
という「イエ」の流れに沿って生きてきて、そこに自分の人生は存在しなかったことがはっきりしました。
このような人生を歩んできたゆえ、その親に従うのが私の義務であるのが本来です。それが「孝」であり、それを全うするのが「親孝行」なのです。私は本来
親孝行は義務である
という考えです。今でもこの考えです。
しかし、いま私は自らこの考えを破っています。
破らないと生きていけないのです。

2019年3月20日水曜日

会社を離れることになって…思うこと

ご無沙汰しています。
実は、この3月末で会社を辞めることになりました。正確には
「会社から放逐されることになった」
のです。

理由は、「あれ」の今後の在り方について、社長と対立したことが直接的なものです…が

突き詰めていくと、本当の理由がわかってきたのです。

辞める会社、正確に言うとこの記事は2019年3月に書いているので、まだ在籍している(すなわち有給休暇消化中)のですが、2月ごろから新しい経営方針と基本理念がちらほら伝わってきたのです。この経営方針と基本理念は4月から正式にスタートするそうです。そして、その新方針と新理念の背後にある、「曼荼羅チャート」なるものを私は目にしました。この「曼荼羅チャート」、詳しくは40分近い時間をかけて社長が一つ一つ丁寧に説明していったのですが、そこに私が首になる理由が見えたのです。

早い話
選択と集中
だったのです。

それを感じた私は、改めて2015年前後のこのブログの記事を読み直してみました。すると、
「会社が大きく方向を変えるとき、不要になった人材はバスを下ろされる」
ということが分かりました。

つまるところ、
会社の方向性が変化し、自らの方向性と大きくずれてしまった
ことに今回の原因があると判断しました。有名な経営の教科書「ビジョナリーカンパニー」によれば、私が解雇されるのは「自明の理」だったのです。(正確に私が読んだのは「ビジョナリーカンパニー」そのものではなく、その「解説書」「ガイド」に類するものでしたが)

そして、私が再就職しようとすると、かなりの困難を伴うこともわかりました。いわゆる「学び捨て」(学習放棄、脱学習、アンラーン)をしなければいけないことが分かったのです。「学びほぐし」という言葉もありますが、そのような生易しいレベルではありません。
型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。(ヘレンケラー談)

この「編み直し」がかなりの困難を伴うのです。ソウス

これができる人は「伸びしろ」があり、転職市場で高い評価を受けるのです。しかし、そのような人はほんの一握りです。現状の転職市場で、
一番就職困難な人は私のような人、すなわち「優秀で仕事ができる人」なのです。
なぜなら「自分というものがしっかり出来上がっている」からです。このような人は再就職は困難です。1年経過しようが2年経過しようが、不採用の山を築くことになり、挙句の果ては「3年の間に、500社近く落とされる」ということになりかねないのです。応募書類だけで30万近い金がかかっていることになります。1か月あたり手取り15万程度の仕事に就職するのに3年で30万、1年で10万近い金がかかっているのです…これが現実で、コストパフォーマンス上どうなのでしょうか?

しかし、これをしないといけない人もいるのです。私も仮に再就職活動をするとなると、このような
泥沼
にはまる危険が高いです。
この泥沼にはまりそうになった段階で、速やかに再就職活動を止める、という選択肢も今回は想定しています。

ただ、今回会社を辞める直接の理由が「あれ」がらみですし、そもそも会社一本でやっていくこと自体困難なのが現状です。働き方がそれだけ多様化しているのもまた事実で、その事実に制度が付いていけてない現状のほうが問題だと私は思うのですが。