2014年12月16日火曜日

センスと運ですべてが決まる?

こんばんは。
寒い…

今日、仕事をしながらずっと考え込んでいた。

正しい技術と知識を身に着ける→基礎を作る
基礎を身につけたら経験を身に着ける
経験を積み重ねることによって一人前になる。

ゆえに
基本は重要

基本に忠実な仕事を積み重ねれば、経験が積み重なり、結果一人前の仕事ができる。
同時に仕事に対する勘も養われる

プロとして10年以上も風船をひたすら膨らませていたころも、私は基本重視だった。
基礎をしっかり作っていないと、ある日突然倒れてしまう。

ところが…

センスと運という要素が、築き上げてきた基盤より重要な局面になることがある。

正確に言えば、センスも2種類ある。

長年の積み重ねによって養われるセンスと
生まれ持った先天的なセンス(=脳の思考回路)の2つである。

前者のセンスは経験を重ねることによって養われる勘に通ずるものがある。1年や2年で身に着けられるものではない。
ところが、今の社会は1年以内に結果を求められるケースも多々ある。そうなると重要なのが後者のセンスなのである。

同じ努力を積み重ねても、成功する人と行き詰まる人が出てくることがあるが、これは後者のセンスが関係している。そしてそれはほとんど幼少期に決まるといっても過言ではない。
この時期に親から誤った子育てを受けてしまうと、後者のセンスがスポイルされ、結果どこかかみ合わせの悪い人間ができてしまい、その程度がはなはだしいと発達障害やアダルトチルドレンとして認定されてしまう。しかもこのような誤った子育ては親もまたその誤った子育てを受けているケースが多く、結果虐待などの負の連鎖になってしまう。
(補足すると、発達障害は「脳の構造に違いがある」のだが、それを踏まえたうえで乳幼児期から適切な子育てをすれば、緩和されると現代では言われている。それがわからずに、間違った対応を親が幼少期にとってしまうと、その子供が一生涯にわたって苦しむことになってしまう。私はこの類に入る)

そのような人はある一定のところまでは成果を出す。人の何倍も努力をしないと追いつけない、という現実から人の何倍も努力をする。そして越えられない壁にぶつかってしまう。

また、この後者のセンスに問題があることがすなわち、運がないということになる。

以前私は「努力は足し算、運は掛け算」ということを述べたことがあった。
どんなに努力しても、ゼロを掛けると、無に帰してしまう。
どんなきれいな色も、どのような白い色も、濃い黒で塗りつぶすとすべて黒く染まる。

数年前、阿蘇の外輪山にできたダムが全然水がたまらないダムで、税金の無駄遣いとマスコミにぼかすかにたたかれたことがあった。そのダムはとてつもない金をかけて補強工事を行っているらしいが、費用対効果の問題になっているという。
このような場合、見切りも重要になる。
見切れないことを「コンコルド効果」という。一種の誤謬である。

このようなことは、つい一昔前までは考えられなかった。
それだけ今の社会がスピードと効率を重視していることの表れである。

韓国では「パリパリ」という言葉で物事が動いている。「早く早く」という意味である。その結果高い自殺率をもたらしている。こういう国と競争しなければいけないから、日本もスピード効率重視になってしまう。そうなると先天的な生まれ持ったセンスがより重要視され、結果とあるスポーツ選手がつぶやいた
努力が実るということは当てはまらない、持って生まれたものが重要だ
ということになってしまうのだろう。

最近、若い世代ほど「努力しても無駄だ」と思っている傾向があるようだが、今の社会にその要因があるような気がしてならない。

2014年11月5日水曜日

職業人と組織人の違い

おはようございます。
今週末は天気も悪く、ぱっとしませんでしたので、勉強に充てていました。
そしていろいろなことを考えていました。

そしてある答えにたどり着きました。

職業人として求められることと
組織人として求められることは
別々である

そして当然のことながら
それぞれの評価の尺度も異なる
ということに。

よくこのような話を聞きます。
会社が成長するにつれて社員、特に中間管理職に求められる能力も変わる
会社の成長期は優秀な成績を上げることが重要
会社があるところまで成長すると
成績以上に人に慕われる力が必要になる

そうなるとおのずと大企業とベンチャー企業で求められる人材は異なってきます。

大企業は順応性の高い人材が求められ
ベンチャー企業ではスキルの高い人材が求められる

大切なのは
今自分はどっちを目指していて
今自分が属している組織がどっちに向かっているのか
ということを十分考えて行動することなのです。

だからよく優秀な社員が社風に合わないことを理由に左遷・更迭され、会社を追われるということが起きるのです。
いい例が先日ノーベル物理学賞を受賞した中村博士です。彼は徳島県にある小さな化学会社で開発の仕事に携わっていました。この会社は急成長を遂げましたが、その中で彼はお役御免となってこの化学会社を追われアメリカへ移住し、アメリカの大学で教授となって研究開発に没頭しています。

日本のこれまでの社会は終身雇用。組織への忠誠と引き換えに人生の保証をする社会でした。
今は必ずしもそうではありません。

組織人として優秀なのは、いかにその組織に順応して、組織の中の一員としてやっていけるかなのです。能力は必ずしも必要ありません。
一方職業人として優秀なのは仕事の能力であり、順応性は二の次です。一方で組織がその能力を必要としなくなったらお払い箱になるリスクは大きいです。

全く違う能力をごっちゃにしてしまっていたのが日本の大企業だったのです。

とある発達・精神障碍者向けの就労移行支援施設は、一時期優秀な組織人を育成する方向に向かっていました。その結果この施設の内部は大混乱になり、中の雰囲気は最悪だったそうです。この施設はその後この反省を生かして、必ずしも組織人ではなく、様々な働き方に対応できるようにシステムを改め、雰囲気が大きく変わったと聞きます。

今でも地域によっては「組織人育成」の方向を向いている教育が行われているようです。いい例が関西地区で目立つ「巨大人間ピラミッド」であり、一時期話題になった「居酒屋朝礼を真似した朝の会」です。その結果問題になっているのがブラック企業なのです。

時代が変わった今、必ずしも優秀な組織人だけが豊かな生活を享受できるのではないのです。

2014年10月7日火曜日

ランナーズ・ハイ…本当にいいのか?

こんばんは。
今私は、長年携わっていた風船の仕事とは全く違う仕事に携わっています。

そこで思うのが
風船の仕事って、正直マラソンを全力疾走で走るような仕事だったのでは
ということです。

今の仕事は正直言って全力疾走を求められていません。
いかにして安定した走りができるか
という方が重視されています。

ここ数日、全力疾走のペースで仕事をしていたのですが、ついついバルーンデコレーターだった以前のペースになってしまってたようで、
オーバーペース
を現在の上司より指摘されてしまいました。

オーバーペースで全力疾走を続けた結果
もともと発達障害の傾向があった自分は
鬱症状を発症してしまった

という過去の過ちを繰り返しかけていたのです。

道理で最近おかしいはずでした。

そこで本題。

マラソンを100メートル走のペースで走らなければいけない
生き馬の目を射抜くような仕事

このような仕事を長年続けているとどうなるか?

たとえそれが自らのすべてをかけた仕事であったとしても…

私以外にも、似たような経験をした人をたくさん知っています。

ある人は、
背伸びをすることによって成長する
無理をすることによって自らの限界を越えられる
という主張をしています。

しかしそれがはたして万人に通用する成功の法則でしょうか?

私は背伸びも、無理もしました。
しかしそれに見合った結果は得られませんでした。

はっきり言って個人差があります。
背伸びや無理がかえってその人の人生にマイナスに作用することすらあるのです。

自ら成功したからといって、その方法で射幸心をあおるのはやめてもらいたいです。

2014年10月5日日曜日

完璧主義って?

こんにちは。

↓の記事を長々と書いているうちに、私の母親と私に共通する言葉が見つかった。

完璧主義

精神疾患は遺伝する、とはよく言ったものであるが、本当である。
私の母親は完璧主義者で、その結果強迫神経症になり、歩けなくなるまでになった。

その結果、私も完璧主義者になってしまった。

その完璧主義は、ことバルーンビジネスに関しては、いい方向に作用していた面があった。
バルーン演出である。

バルーン演出が行われる場面は、結婚式やオープニングセレモニー、さらにはライブコンサートなど、失敗が許されない瞬間勝負であることが多い。

ふうせんでつたえたいこと
にそれこそしつこく書いているが、その瞬間だけのために何時間も何日も費やして考え、動く。
すべてはその瞬間だけのためである。

しかし成功させたその瞬間の感動たるや、たとえようのない快感である。
そしてその瞬間の感動は、その場に居合わせた人たちの心に色あせることなく、いつまでも残る。

しかし失敗したときは大変である。
それこそ土下座では済まされない。

私はこれを「返還欠場」と呼んでいた。

返還…クライアント様にギャラを返さなければいけない(いただけない)
欠場…何もしなかったのと同じ

返還欠場はもともと競艇の用語であり、実際私も競艇を見てこの言葉を知った。競艇の場合、スタートで失敗をすればこの言葉が当てはまる事象になる。すなわち「スタート事故」である。
私も演出の失敗は「演出事故」と呼んでいた。

競艇選手というのは、本当に特殊な世界で生きているという。実際私は何人かの競艇選手と話をしたことがあるが、その苦労たるや私がプロでバルーン演出に取り組んでた時と同じである。共通するのは
瞬間勝負
であり、
その瞬間のためだけに、何時間も費やす
ということである。

こういう世界では、完璧主義はいい方向に作用する。
ただひとたび崩れると収拾がつかなくなる。
だから完璧主義はよくないとされる。

このようなハードな仕事を私は毎週のようにやってきていた。
若いうちはそれこそ楽しかった。心身のきつさより成功したときの快感の方が勝っていたからである。
しかし歳月が流れるにつれ、まず体に無理が生じ、やがて心をむしばんだ。そして私は鬱に倒れた。

うつに倒れて、ようやく私は自分と自分を取り巻く周囲の状況に気が付いた。そしてそれらと真正面に向き合い、絡み合った糸をほぐすようなしんどい作業をした。結果
私が風船に携わること自体があらゆるところに齟齬をきたしている
ことがわかり、身を引くことによってすべてを止めた。

これを
限界
という。

今年流行していた「アナと雪の女王」の「レリゴー」に…
どこまでやれるか自分を試したいの
という歌詞があった。

私が思うに、本当にどこまでやれるかやりきった人は、そのほとんどが成功している、と思う。
やりきって成功しなかった場合、努力不足が原因ではない。そもそも努力不足の場合は「やりきってない」。
その場合は以て生まれたもののどこかに齟齬ないしは障害がある場合がほとんどである。私の場合は生まれつきの発達障害がそれであり、それに伴う複雑に絡み合った親子関係が絡んでいた。不幸なことといわざるを得ないが、どうしようもないところに原因があるので、その場合はあきらめるしかない。

あきらめるとは「明らめる」という意味もある。

避けて通れない宿命

こんにちは。
ここ数日、すごく悩んでいます。

というか、
そもそも私はなぜ風船の仕事をやめなければいけなかったのか
ということを考え始めてしまったのです。

東日本大震災に始まるブライダル市場の変化とそれに伴うバルーンの立ち位置の変化
も確かに大きな理由です。
それに伴うバルーンに求められているものの役割の変化とその結果としてのバルーン市場の変化
も大きな理由です。

しかし、最大の理由は
自分が自立できない宿命のもとに生きていた
ということでした。

私の母親は、現在原因不明の病気にかかっており、歩けないのが現状です。西洋医学から漢方に至るまで、ありとあらゆる療法を試してみたのですが、どれも効果ありません。
こうなったら残るは温泉転地療法しかありません。
私は鹿児島に長期転地を勧めました。鹿児島には母親がかかっているとされる病気に卓越した効能があるとされる温泉があり、私もそこに行ったことがあります。しかし母親は断固拒否しました。

鹿児島だけは絶対いや

私は長年、母親に大きな疑問を抱いていました。
母親は私に依存しているようで、結果私はアダルトチルドレンになってしまいました。
そしてバルーン業界を
カルト宗教
呼ばわりしてしまったのです。

確かに周囲にいわゆるカルト教団に入信し、両親の必死の働きかけの結果、奪回に成功した人が複数います。
しかし本来人を幸せにするはずの風船をカルト宗教呼ばわりするとは…

母親の病気はそこまで深刻だと私は判断しました。
ましてや私は生まれつき自閉症で、大人になって発達障害に苦しんでいます。

鹿児島への帰郷を断固断ることしかり、バルーン業界をカルト呼ばわりしたことしかり、もはや尋常ではありません。

加えて私の母親は、幼少期から結婚するまで、厳格な躾を受けて育ってきたと聞きます。躾に行き過ぎがあったとも伝わってきます。
一方私も両親から厳格な躾を受けて育ちました。
その躾は正直言って
虐待
の部類に入ることもありました。
暴力 卑下
は当たり前でした。


厳しすぎる躾を受けた子供は、結局自立できない
ということが今盛んに言われています。というより
昭和の時代は、厳しすぎるくらいの躾を推奨していました。

ぶっちゃけた話、
私がバルーンにのめりこんだのも、親と戦うためだった
のです。まさに
自立をかけた戦い
だったのです。

しかし見ての通り、今バルーンがはたしている役割は
絆を結ぶためのアイテム
です。

親子の絆(きずな)が絆し(ほだし)になってしまっている状態の私に、絆を結ぶ役割はできません。
そのような風船には魂が入っていません。

ただ単に自立を守るだけなら、親と縁を切ってバルーンに携わり続けるという選択をするのが当然です。
しかし、問題は複雑多岐にわたっていました。
その問題は先祖代々のところに原因があったのです。
この問題はまさに家族の根源といっていいところにあったため、私は
生涯独身を貫くよりほかない
と判断しました。つまり
私は結婚してはいけない宿命にあった
のです。

仮に私が結婚して、子供を産んでいたら、
虐待
に走っていたかもしれなせん。もしくは
ドメスティックバイオレンス
を惹き起こしていたかもしれません。
いずれにしても、相手になる女性を不幸にしていた可能性が高いです。というか、
間違いなく相手の女性を不幸にしてしまいます。

こうなると、
私が本来人を幸せにするはずの風船を扱うこと自体に齟齬が生じてしまいます。
だから一度風船から離れる必要があったのです。

今思うのですが、この判断は正しかったと思います。
なぜなら
時代に応じて流れは変わる
流れに合わなくなった人は新たな道を探らなければいけない
からです。
昔は流れにあっていても、今は合わないということも現実にあります。

2014年9月23日火曜日


こんにちは。
私も親(特に母親)に厳しく育てられました。父親も厳しく、私は両親が両方とも父親に育てられたようなものです。

もっとも、1970年代当時は、発達障害などの概念は一般に知られておらず、両親は正体不明の悪魔と戦っていたようなものですから、このことで両親を責めることはできません。

他方、今は早い段階で発達障害の診断がなされる傾向にあります。
このような場合、決して厳しい躾をしてはいけません。

そうしてみると、上の記事のタイトルはおかしいです。
正しくは
「子供の鬱は発達障害由来の併発症状の可能性あり」
なのです。

私は長年のストレスからうつ病を発症しましたが、その根底の原因が発達障害でした。

発達障害の子を持つ親は、自分も同様の傾向を持っていることが多く、子供の育てにくさを強く感じやすくなるという。(上記記事より引用)

現代は発達障害に対するケアが手厚いです。40年前とは比べ物になりません。対処方法も確立されつつあります。
こうなると親がしっかり問題に直面して、勉強する必要があるのではないでしょうか。
正しい対処をしないと
虐待
を招くことになる。