2017年12月27日水曜日

本当は怖い「親孝行」

こんばんは。
こちらはおそらく今年最後の書き込みになると思います。

先月11月中旬、私の叔母が「孤独死」してしまいました。

結局違ったのですが、一時は「強盗殺人」が疑われるほど、通常の死に方ではなかったので、警察で司法解剖が行われることになり、結果胃潰瘍によるショック死もしくは失血死との診断でした。

しかし、このような病気では普通死ぬことはありません。
私も「地域包括支援センター」から訪問介護や訪問看護というチャンネルにつないだり、あるいは遠隔見守りシステムの導入など、福祉に結び付けようとして動いていた矢先のことでした。

ならば、なぜ…

一つ考えられるのは、
両親にかしずいたあまり、自分の人生を謳歌することなく死を迎えた
ということです。

あるいは
人生に何の楽しみもなかった
のかもしれません。

いずれにせよ、厳しすぎた親のしつけに従い、それに忠実に従ったあまり、親の死後、自分の人生を謳歌することなく、抜け殻のように生きることになり、最後は座して死を待つことになってしまったこの叔母…

大きな誤謬があり、かつ時代の変化についていけなかった子育てを受け、それに従った結末だとすれば、本当の悲劇といわざるを得ません。
しかし、それが儒教では「是」とされているのです。

儒教の教えでは…
道に外れたことを行う君主を三度諌めても聞き入れられなかったら、君主の下から去るべきであるとされたのに対し、道に外れた親を三度諌めても聞き入れられなければ、泣き寝入りして従わなければならない
とされています。

私の母親は、道に外れた「躾」を私に対して行いました。
この原因がどこにあるのかを私は突き詰めた結果、
母親も好き好んでこのような躾をしたのではない
母親自体がそのような躾を先祖代々受けてきた
ということが分かったのです。

その言動は、母親から常々私は何度も見聞きしました。
その躾に完全に従い、かしずいてきた叔母ゆえ、このような運命をたどってしまったというのが私の見解です。

私も儒教の教えを信じています。
加えて、私は「たとえ親に誤謬があっても、子どもは親に従わねばならない」と考えていますし、親の望む人生を歩むことが親孝行であり、それこそが子供の義務である、と考えています。私はその点で「親不孝であり、子どもとしての義務を果たしていない」と考えています。
「あれ」のおかげで、自分らしい人生を歩むのみならず、多くの人を…としていますが、実はこれは「親不孝」の極みなのです。

ただ、このような「親不孝」をしない限り、自分らしい人生を歩めないという現実が私にはあり、そのような家に生まれた私は、「家じまい」「墓じまい」をする義務があるのです。本来孤独死すべきは、私の両親が亡くなった後の私なのです。
このような誤謬を抱えた家に生を受けた私は、結婚できないのが当然であり、私で「負の連鎖」を止めなければなりません。
仮に私が結婚し、子供をもうけようものなら、それこそ虐待に走っていた可能性があります。(当然虐待の結果、私は「塀の中」に入ることになります)

ですから、私はすでに「生涯独身」を貫く方針を固めています。

そのような、誰も幸せにできない人生を歩むことが「親孝行」という状態の私。
母親は、それを知ってか知らずか、「自衛隊に入ってほしかった」というのが口癖です。殉職を望んでいたのかもしれません。

さらに言えば、母親の出身地は薩摩半島。
薩摩半島には、特攻隊の基地であった知覧があります。
お国のために命をささげることが、戦時中の日本では最大の栄誉とされていました。

加えて母親は三姉妹の長女。先日亡くなったのは、次女に当たります。
ところが、母親には兄がいました。その兄は、戦後の混乱期に病に倒れ、幼くして世を去ったそうです。墓銘碑にもその記録があります。
そして、初孫が私。ところがその初孫が自閉症。母親は厳しい叱責を受けたそうです。さらに私には妹か弟がいたそうですが、私より重い障害がある可能性が取りざたされ、堕胎されたそうです。

このような「負の連鎖」が母親の家系にあることが分かり、しかも実質父親は「婿入り」状態。
母親は「毒親」ですが、その原因はこのような先祖代々の「負の連鎖」ということを突き止めていました。
このような家ゆえ、「親不孝」をしない限り、自らが自分らしい人生を歩めないという、矛盾を抱えて私は生きているのです。
それゆえ、私はなまじ結婚すると、矛盾を拡大再生産し、結果不幸を広げることになってしまいます。
ましてや私は儒教の教えこそが真実と信じている一人。それに逆らって「あれ」をしていること自体、儒教の教えに反しています。でも、そうしないと自分らしい人生を歩めないことも事実。

結局のところ、「親孝行」もごくまれではあるが時として、死を招くことがある、ということです。
そこに儒教の恐ろしさがあるのです。
その恐ろしさに私は気づいているからこそ、平気で「親不孝」ができるのです。