2019年3月24日日曜日

「発達障害」と「愛着障害」…その違い

こんばんは。
最近、私は生まれつきの自閉症(=「発達障害」=「アスペルガー症候群」)に加えて、「愛着障害」ではないのか、と思い始めています。

「愛着障害」の症状としては…(ソウス

小さいうちは“おとなしく育てやすい子”ですが、幼稚園、小学校に入学してから問題行動を起こすようになります。
初めての集団生活の中で友達を叩くなど多少の喧嘩は誰しもありますが、その衝動的・破壊的行動がいつまでも止まず激しくなります。
母親から得られなかった愛情を他の大人に求めて、保育士が他の子に関わっているとそれを妨害するように机をひっくり返したり、物を壊したりすることもあります。
表面的なものは収まっても、大人になってから、次のようなケースも起こります。
例えば…
  • 特定の人と親密な関係が築けない。
  • 恋愛で恋人が離れていかないようにわざと相手を困らせるようなことをしてしまい、失敗する。
  • 人と親しい関係になるのがわずわらしいと考える
  • 他人からの評価を異常に気にする
  • 自分が嫌いで自己肯定感が低い
  • 人に頼ったり甘えることができない
  • 他人にSOSを出して助けを求めることができない
  • 自分の気持ちは押さえて相手ばかりに合わせてしまう
  • 拒否されたり傷つくことに敏感
  • 嫌われないかといつもビクビクしている
  • 見知らぬ人にも近寄りすぎる
これらは幼い頃に親から愛情を与えられなかった経験が、他人との関係性にまで影響を及ぼしている例です。

かくいう私ですが
赤字は強い傾向を示しています。
橙字はややその傾向を示しています。
紫字はかつてその傾向が強かったですが、最近やっと克服できたものです。
緑字はどちらかといえばそうではないです。

そして、「発達障害」と「愛着障害」は併発しやすい(特に「アスペルガー症候群」の場合)という記述もあります。ソウス

自閉症の子どもは、親の後を追わなかったり、一人で寝かせていても平気だったり、乳幼児期に「あまり手がかからない子だった」と言われることがあります。
そうなると、母親は「おとなしくしている扱いやすいいい子」と思ってしまい、一人遊びをずっとさせることもあります。結果、愛情不足になってしまうこともあります。
また、反対にちょっとしたことで火がついたように泣く敏感な子どももいます。こうなると「とても育てにくい子」として育児に悩みます。
更に少し大きくなってもこれが自閉症だと気づかれぬまま、幼稚園、保育園に入園し、ひと時もじっとしていなかったり、集団行動がとれないと場合、「どうして、みんなは出来ているのにあなたは出来ないの!」と激しい叱責をしたり、厳し過ぎるしつけをしたり……。
その結果、子どもには不安感が増し、結果的に愛着障害と同じような状態に陥ることもあります。
また知識のない母親の中にはその特性を理解できず、障害を受け入れることができずに中には虐待してしまうケースもあります。
実際、発達障害の子どもは健常児と比べて4倍も虐待を受けるパーセンテージが高くなっていると言われています。
そうなると“発達障害+愛着障害”の両方が重なることになります。

同じソウスには、「自分がこうなったと自覚している場合の対処法」もあります。

どんなに小さなことでもいいので、“自分が認められる体験”を今から積むのです。
幼いころに得られなかった“人から大事にされる、認められる”という経験をこれから積んで、自分に自信を持てるように回復させるしかないのです。
自分が他人との関係性がうまくとれず悩んでいたとしても、過去に時間を巻き戻して親に“育て直し”をしてもらうことは不可能です。
(中略)
親を反面教師にして自分がされていないことをわが子にすることは、なかなかハードルが高いかもしれませんが……。わが子が将来苦しまないようにするためにも、しっかりと親子の絆を今から深めていきましょう。

私の場合、「あれ」がまさに「自分が認められるための体験を積む手段」となったのです。「あれ」がなかったら、今頃自ら命を絶ってこの世に存在していないか、親を殺して塀の中にいる(あるいは国家によって殺処分されている)かもしれなかったのです。

私はこれからの人生、私と同じような苦しみを味わう子どもたちを少しでも減らすことに尽力したいです。そのために「あれ」を続けます。

しかし、それを許さないのが私の両親です。

7年前、2012年、それを力ずくで奪いました。母親は自殺未遂をしてしまいました。聞くと自殺未遂は2度目。私が幼少のころ、それこそ自閉症の原因がわからず、もがき苦しんでた頃、一家心中を試みたそうです。父親が止めたそうです。
自殺未遂の話を聞いて、私は「あれ」を辞める決断をしました。

その後、母親の家に「負の」家系譜が存在していたことが分かりました。母親には兄がいて、母親が生まれる前に栄養失調で亡くなっていたとのこと。亡くなったのが昭和21年、1946年のことでした。この年は2月に預金封鎖、3月に桜島大噴火(昭和噴火)と続いており、それまで鶴丸城下の御用商人の流れを汲むゆえ富裕層とされた一方、薩摩藩故、郷中教育の流れをくむ厳格な男尊女卑の教育の影響をも受けていた母親の家は一気に貧しくなったと聞きます。
それゆえ、母親は「毒親」になってしまったのかもしれません。母親の妹である私の叔母は、生涯恋愛もせず、結婚もせず、母方の祖父母に仕え、祖父母亡き後は自分の人生の価値を見失って「ゴミ屋敷」化してしまい、最後は救急車を呼べば助かったにもかかわらず救急車を呼ばずに自ら座して死を選んだのです。
これで私の両親は
「自分の人生は親の言うとおりに従う」
という「イエ」の流れに沿って生きてきて、そこに自分の人生は存在しなかったことがはっきりしました。
このような人生を歩んできたゆえ、その親に従うのが私の義務であるのが本来です。それが「孝」であり、それを全うするのが「親孝行」なのです。私は本来
親孝行は義務である
という考えです。今でもこの考えです。
しかし、いま私は自らこの考えを破っています。
破らないと生きていけないのです。

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