2020年9月22日火曜日

「折り合いをつける」ことの意味

自分の人生を自分の好きなように生きることを世間は許しません。何故、わざわざ時間と体力を割いて、自分とは関係のない他人の生き方に難癖をつけるのかが理解できませんでしたが、数年前に合点がいきました。それは

「俺も折り合いをつけたのだから、お前も折り合いをつけろよ」

という”折り合いの強要”で、つまり、

「早く諦めてくれよ。自分の人生を好きに生きられることが証明されてしまうと、それを諦めた自分がバカみたいじゃないか」

です。そんな「知ったこっちゃねーよ」な都合が、批判となって、多数決で正論となって、のしかかってきているのだと。

キングコング西野 公式ブログより引用

私の両親はあらゆることに折り合いをつけて生きてきた。だから私のような生き方を否定する。

「自分があきらめたことを我が子にしてほしくない」

というのが本音ではないだろうか。というか、そうやって人生の終盤まで生きてきた。

そればかりか、私までがそうなってしまっていた。なぜなら、それこそが子育てのすべてであり、悪く言えば「洗脳」「ブレインウオッシュ」であったからである。

この長年日本を支配してきた価値観が変わろうとしているこの時期だからこそ、価値観が衝突する。これは一種の

「文明の衝突」

といえるかもしれない。「文明の衝突」がもたらしたものが「戦争」である。



2020年8月26日水曜日

全く同じだ

 こんにちは。

今日はもう率直に申し上げます。

「全く同じだ」

ソウス

2020年6月5日金曜日

教育・訓練・躾・調教

こんにちは。

はっきり言って、「教育」と「訓練」があいまい、ごっちゃになっているのが現状である。そして「訓練」と「躾」は近い。さらに「訓練」と「躾」が度を越えると、それは「調教」になる。

残念ながら、私の両親がしてきたのは実は「調教」となる。私の両親は「教育」は一切してこなかった。両親が徹底して私にしたのは「躾」だったのだが、この「躾」に行き過ぎがあり、「調教」と化してしまったのだ。
その根源の原因は、両親のまたその親が、父親母親共に「調教」ともいうべきものを家庭の中で受けてきたことにあることがはっきりしてきたので、両親を責めることはできない。確かなのは、両親とも「躾」に厳しい家庭で育ったということである。その中でも母親は「躾」の範囲を逸脱し、「調教」を受けていたようである。
ではなぜ、「躾」もとい「調教」を私の両親は受けてきたのだろうか。それは時代背景が大きいと私は考える。
第二次世界大戦の前、昭和初期の日本の状況は、「男子はよき兵隊になれ」という時代であった。
2016年の3月に熊本県阿蘇市の満願寺温泉というところで撮影した画像なのだが、「日本徴兵保険申込所」というくだりがある。徴兵されるのは当時、栄誉とされていた。それ故このような保険が存在していた。それが南京事件に端を発する日中戦争、そして太平洋戦争へと進むにつれ、「お国のために命を捧げよ」という「大政翼賛」の時代へと進んでいく。
その後日本は敗戦、以後朝鮮戦争から高度経済成長、オイルショック、安定成長からバブル経済、バブル崩壊以降の「失われた…」と続くのだが、それとともに価値観が変化していく。元号も「昭和」から「平成」、そして「令和」へと変わっていくのだが、少なくとも「昭和」の間は「調教」を基礎とした「躾」が家庭内での子育てとしてよいものとされていた。社会がそれを求めていたからである。企業で「優秀」とされていた人材は「5S」が自然とできる人であり、5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)と「報連相」が企業で働くための基本とされていたからである。こういったものは「教育」よりも「訓練」で身に着けるものであり、自然と体が覚えるように「習慣化」されてこそ、よき企業人、組織人となる。
ところが、「平成」になってから変化が起きた。「情報化」と「グローバル化」である。その結果、バブル崩壊と併せて従来の価値観の崩壊が起きた。こうなると、「調教」や「躾」が通用しにくくなる。変化は平成の30年間をかけて少しずつ進んだ。そして「令和」の訪れと時をあまりたがえずにやってきた「コロナショック」…
この先、日本社会、日本企業の進路が大きく二つに分かれそうである。一つは、テレワークをベースとした「ジョブ型雇用」の普及と、「多種多様な働き方」の推進。情報化の進展がこれを可能にした。オフィスには最小限の人数しか必要なくなり、会議はテレビ会議システム。働く場所は自宅をはじめとした自分の好きなところでとなり、生活の一部に「働く」という行為が組み込まれるようになる。もう一つは、「メンバーシップ型雇用」をベースとした「訓練された組織」で働くこと。この場合、「全人格的労働」が必須となる。ただ、こちらは少数派となりそうである。このような企業では、「まっさらな人材、どのような色にでも染められる、どのような形にも変えられる、柔軟な人」が求められるようになる。「ブラック企業」のように見えるが、使いようによっては「自分を鍛える」ことができる。若い人はこのような組織に所属してみるのもよい。
ただ一つ言えるのは、「家庭」とりわけ親の立ち位置が変わりつつある、ということである。「調教」化した「躾」はもはや
百害あって一利なし
になっている。「虐待」の領域にさえなっている。親が子にすべき教育は
達成感、自己肯定感を身に着ける
ことに変化した。



2020年5月27日水曜日

低い自己肯定感と自粛警察

こんにちは。
新型コロナウイルスの緊急事態宣言は解除され、日常に戻りつつあるのですが、その日を迎えられなかった人がいます。志村けんさんや岡江久美子さん等とは別の理由です。とあるテレビ局のリアリティー番組でその悲劇が起きてしまいました。
私もそのインスタグラムのストーリーズは見たのですが…
「愛してる 長生きしてね…」「さようなら。」
その写真をアップし終えたのち、抱きかかえていた猫をかごに入れて自らの職場だった場所へ運び、その後わずかばかりの距離を歩いて、「硫化水素発生中」という張り紙を張って酸性と塩素系洗浄剤?を混ぜ、自ら命を絶った…その間わずか2時間程度。

なぜこのような悲劇が起きたのか?

私は「日本人の低い自己肯定感」に最大の原因がある、と考えました。新型コロナウイルス感染拡大の際にはびこった、いわゆる「自粛警察」と同根です。
ではなぜ、「自粛警察」なるものが発生するのでしょうか?

その背景にあるのが、日本独特の「集団主義」「恥の文化」にあると考えます。それが「同調圧力」につながり、不安や「不公平感」と相まって、「自粛警察」「コロナ警察」のような理解しがたい行動に出るという論調が多いように感じます。

私も実は、「自粛警察」になりかけました。日本でも指折りの「ホットスポット」となっていた北海道札幌市のとある場所で一人芝居を行おうとしていた知り合いの女性(この方はバルーンアーティストである傍ら、一人芝居を長年続けてきた方である)に、私は「安全上大いに問題がある、やめるべきでは」とフェイスブックで呼びかけました。
私が「やめろ」と呼びかけたのには理由がありました。小劇場はライブハウス等と同じで、この時期問題になっていたクラスター感染の危険が非常に高い、と感じたからです。そもそも私は「人を幸せにするはずの風船だからこそ、安全を最優先にすべきである。死亡事故などもってのほか、論外だ」という考えがバルーンアーティストとして活動を始めた最初のころからずっとあり、実際その考えに基づいてストップをかけた事例もあります。
安全はすべてに優先する
これが旧Y's Dreamから一貫している私のバルーンに対する根幹の姿勢であり、それ故2月下旬の段階で「ふうせんまつりが今年でなくてよかった」というつぶやきをSNS上でしたほどです。つまり、2月下旬の段階で開催断念を決断していたと思います。早くあきらめた方が、傷も少なくて済むと考える節もありました。

しかし、彼女と私の仲はこれで冷え切ってしまいました…彼女にとって私は「自粛警察」に映ったのでしょう。
…結果ですが、彼女は台本を書き換えたうえで朗読劇に切り替え、成功させました。会場がたまたま屋外も使える場所だったのも幸いしたようです。
私は彼女の困難をはねのける力に脱帽しました。

話を「自粛警察」の元の話に戻すと、以前述べた「町内会と農村と村八分」に近い構図が見えてきます。「ムラ」「群れ」が基準となっている日本社会…ここに最大の問題が潜んでいる、と考えます。その延長線にあるのが日本独特の「集団主義」「恥の文化」だと私は考えます。その中では「同調圧力」が非常に強くなります。それ故、マズロー心理学の言う「承認欲求」が重要になり、自己肯定感が基本のアドラー心理学は日本では軽視されるということになります。
これこそが、日本で不登校がなくならず、発達障がいが「障がい」とされる大きな原因の一つであることは間違いなさそうです。

2020年5月4日月曜日

労働移動と不適性問題

こんにちは。
どんどん事態は深刻化しています。感染拡大は止まりません。緊急事態宣言も5月31日まで延長になりました…ひょっとすると、1年後の今頃も引き続き緊急事態宣言が出たままになっているかもしれません。

「全企業の売り上げが半減、救済策も行き届かなかった場合、約1年後には60万社以上が倒産の危機に陥る可能性がある」
NHKスペシャル「需要蒸発 拡大する倒産リスク」より

ところで、私はある「産業」は、これを機に無くなってほしいと思っています。というか、行政が「追い込むべき」だと考えます。その産業は「パチンコ産業」です。パチンコ産業は、娯楽レジャー産業では最大規模を占め、その市場規模は約20兆円といわれています。現在実施されている「新型コロナウイルス経済対策」が約12兆円…国民全員に10万円をばらまくという、スピードが求められているとはいえ、通常ではありえない政策が行われています(これは近い将来の「生活保護再編」、すなわち「ベーシックインカム導入」を視野に入れて考える必要がある)が、それよりも大きいです。
参考までに、公営ギャンブルの売り上げを述べておきますと、中央競馬が約2兆6000億、地方競馬が約7000億、競艇(ボートレース)が約1兆、競輪が約6600億とそれぞれ上昇傾向にあります。ほかにオートレースもあり、合計で5兆円は超えています。私は公営ギャンブルは好きなので、とやかく言うつもりはありません。そもそも、パチンコとは根本的に異なります。「予想する」という行為がつきものだからです。スポーツ新聞をはじめ、さまざまな専門予想誌、豊富なネット情報、そしてパドックにスタート周回展示(最近はさらに詳細なタイムが出るようにになった)…情報を分析して予想し、馬券や舟券、車券を買ってスタートを待つのです。競馬なら馬に騎手、競艇なら選手とモーターの相性及び整備…といった要素も絡み、そういった実力的な要素も複雑に絡んで予想ができるから、無茶をしなければ本当に楽しいです。今は各場が閉鎖中なのでできませんが、たまには本場(ほんじょう)に出向いて生で迫力を感じることも大きいです。舞台裏では様々なドラマも隠れています。競艇はフライングなどスタートを失敗すればその選手は最低1か月無収入プラス場合によっては罰訓練が課される、いわゆる「スタート事故」「返還欠場」というのがあり、競馬にも「カンパイ」なるものがごくまれにありますし、あまり望ましいことではありませんが、競馬では馬が「予後不良」になってしまう場合もあります。さらに独特の雰囲気のC級ともいうべき裏グルメなどもありますし、無茶をしなければ本当に楽しい、本当の意味でのレジャー、娯楽になります。今でも競艇場にはたまに足を運びます(歩いていける範囲に1か所、さらに車で2時間もかからない場所にもう1か所あります…)。
話が大きくずれたので、パチンコの問題に戻しますが、このようなある意味「健全に楽しむことが可能な」公営ギャンブルに比べ、パチンコはすべてが「店任せ」「機械任せ」です。公営ギャンブルに比べて、その不健全さははるかに大きいです。公営ギャンブルの場合、負けるとその金は最終的に国庫もしくはその競技場がある自治体に収納され、税金などと一緒になります。競艇のように「日本財団」なる団体を構え、海外ボランティアや社会福祉事業へ分配を行う事業をする外部組織もあります。パチンコは負けると、その店の収益になるのです。
ソウス「日本のタブー、なぜパチンコは日本では問題にならないのか?」
詳しくは上記リンクを見ていただければわかるが、私も同意見です。
考えてみれば、20兆円ともいう、国家予算の半分近くの金が何の生産性もなく浪費されているという現実…
ソウス「コロナ禍中、後に自民党・安倍政権やそのクズな支持者が引き起こす日本の最悪の未来とは!?」
このような現実があるのに、パチンコ店を温存しようとしている…
韓国はコロナ発生まで日本よりはるかにひどい低迷状態だったが、コロナによって立場が逆転してしまっています。その韓国は過去に「パチンコ全廃」に踏み切りました。私はこのコロナウイルスの蔓延という危機こそ、パチンコ全廃のチャンスと考えました。

パチンコ全廃によって、産業が消え、雇用が失われます。その失われた雇用は、吸収できると考えます。(同時にキャバクラやホストクラブなどの風俗産業も全廃してほしいと私は思う)
その「雇用吸収先」が、実は介護の分野と私は思います。

私はこの数か月、特別養護老人ホームや小規模多機能、グループホームなどの現場を複数見て、体験就労しました。介護職への入職を検討して、実際に体験したのですが、「適性」の壁に阻まれました。どう考えても、介護現場は私にとっては「不適性」といわざるを得ませんでした。究極の人格労働、高い倫理観と職業意識が求められる現場…特にコロナウイルスと戦っている今の介護現場は、「戦場」そのものです。私は入職しなくてよかったと思っています。
一方私が求められている分野も介護及び福祉には存在します。「高齢者デイサービス」「介護予防事業」と「障がい者の就労支援」「障がい児の発達支援(放課後等デイサービスなど)」です。この分野こそが、私がこれから活躍すべき分野で、かつ私のような経験が求められていると考えています。
いずれにせよ、高齢者や障がい者の介護の現場は、慢性的な人材不足が続いています。こういう分野への労働移動を促進すべく、パチンコ業界や風俗業界にいる人たちに介護職員初任者研修などの訓練を施せば、円滑な労働移動が図られ、社会の健全化に役に立ち、20兆円以上の膨大な金が浪費されることなく、経済活性化につながることと考えます。競馬や競艇、競輪などにも流れ、売り上げの向上によって更なる福祉や公共事業への還元充実が図られることも見込まれます。
私のようにどうしても「不適性」となる人も出てくると思います。その場合はやはり人材難にあえぐ建設業などへの労働移動を促進すべきでしょう。あと、運送業界も人材不足だったのですが、こちらはバス業界という生活に関わる本来壊滅してはいけない業界がこのコロナウイルスで様変わりしてしまう勢いで、しかもバス業界のみならず鉄道や航空、観光全般が恒久的に需要縮小となって大幅な余剰を抱えるようになるようになり、物流貨物への労働力シフトが起こりそうな勢いです。加えて観光業界及びイベント業界等も恒久的な市場縮小となって労働力流出が起こり、そういう人たちも介護福祉分野への労働移動が起こりそうです。観光業界から農業への労働移動は既に起きています。

いずれにせよ、大掛かりな労働移動がこれから間違いなく起きます。その過程で「適性問題」は絶対出てきます。私も労働移動を試み、「適性の壁」に阻まれました。「適性の壁」に阻まれた経験、そしてその周辺にある自らが適している職業での需要開拓…今はこれに取り組むべき時期になっています。



2020年4月13日月曜日

町内会を見限って正解だった

こんにちは。
今、町内会ともめています、というか、このままでは間違いなく
重大事案
に至ります。

今住んでいる地域の町内会で、町内会長が病に倒れ、一時入院しました。そのため全役員を「この際一新しよう」ということにし、役員総入れ替えを企てました。この際、私が指名推薦されてしまったのです。
私は「町内会の在り方について考える方が先だ」という主張を繰り返しました。なぜなら、これまで町内会を引っ張ってきたのは現在70~80歳の高齢者で、いわゆる「勝ち逃げ世代(年金などの社会保障的な面においての)」なのです。この世代とおおむね50歳未満の世代とでは、生きてきた社会環境が全く異なります。

そして、いま日本の置かれている状況は、これまでのやり方が通用しない社会の変化にあるのです。

ここまで書いたのが2020年2月18日。

その後、世の中が激変しました。

外出自粛が全国的に出ました。
密接・密閉・密集は避けろ、という国からのお達しが出ました。

にもかかわらず…この町内会は無視!総会を強行しました。委任状の数が多かったようで、一般会員の大半は委任状を出していたようですが…結構な数の人が出席していたようです。

隣の町内会でさえ6月までの全行事を中止したのに…

この町内会を見限って正解でした。正確には、2月末に「退会届」を提出しました。

今回、総会開催を強行したということ自体、この町内会の体質を疑っています。こういう非常時は、「どこに何が潜んでいるかわからない」という姿勢で臨むべきだと思います。
全会員に書面を配布し、ポストを設置して賛否をそれぞれ記入したうえで提出し、それをもって結果報告書を改めて配布するといった、「持ち回り」方式を導入したほうがよかったのではないでしょうか。
そういう工夫をして、安全を守るべきなのに、住民の一部を危険にさらすような真似をするとは、到底信じられません。しかも、雨が降っていた上に寒かった、ということもありますが、「密閉」でした。

防災のかなめとして、住民を守るべき町内会が、逆に住民を危険に陥れている…
私の疑問はますます深まりました。これでは話になりません。


2020年2月9日日曜日

群れと村社会

こんにちは。
今、私の住んでいる場所で、町内会がもめています。
順番のため、防災担当役員を今しているのですが、昨年20年近く務めてきた今の町内会長が倒れ、一時入院しました。そこで、
ここで人事刷新を図ろう
と現執行部が動きました。しかし…現役世代の方が町内会の役員が困難なのが現代です。特に私は未婚単身者、実質ダブルワーカー、加えて土日が仕事という状態。このため、
できない人たちに無理強いをさせるようなことは防がなければいけない
と考え、さまざまな提案を現執行部に対してしてきました。
当然70代以上の一部から反感を買いましたが、「今は過渡期だから仕方がない」の一言で押し切ってきました。
ところが、だれも応じません。私は
今の役員全員に留任をお願いして、暫定執行部を作り、会長などを置かず、対応できる人が対応して、その間に1年かけて町内会の在り方を模索しよう
という提案までしましたが、これはほかの人からブーイングが殺到しておじゃん。
私はしびれを切らして、
規約を全面改正して、私が全権を握るのなら、会長を引き受けてもよい
という発言に踏み切りました。明らかにクーデターを起こすつもりでした。が、今度は現執行部にクーデターと判断され、これも没。もちろんこれは半ば脅しで、現執行部も簡単にクーデターと見破れるものだったのですが、私は過去に町内会によるパワハラ行為を経験しており、「このようなパワハラ行為がまかり通る、危険な町内会になりますよ。それでもいいのですか」という警告を発したのでした。実際そのような横暴な町内会は全国各地に多数みられます。一度解体してゼロから作り直すぐらいでないと、問題は解決しない、という私の考えもありました。

ならば、なぜ私はここまで戦っているのか。理由は
戦前のような封建的な制度を一掃する
為なのです。発達障害などがあっても自分らしく生きることができる社会を作るために、町内会の現代化の必要性を訴えているのです。

しかしながら、現執行部は今までのやり方にこだわり、結果行き詰まりのどん詰まりに陥っているのです。そして無理強いを強制する…私は退会を決断しました。すでに退会届をいつでも提出できる体制にしています。戦ってもダメなら逃げを打つしかありません。「逃げるは恥だが役に立つ」(某テレビドラマのタイトルだが、実はハンガリーのことわざ「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」)という言葉もあります。

その話を両親に相談したところ、母親が…
事なかれ主義を貫け
だから私は「話にならない」と思うのです。事なかれ主義では何の解決にもなりません。

で、なぜこのようなことになってしまうのか…私は
日本特有の村社会
に問題があると考えています。日本での就職活動が
個を捨てよ、型にはまれ
すなわち「メンバーシップ型雇用」ということになるのと根っこが全く同じです。
ソウス「自分らしさを阻むムラを生き抜く」より

私たちが日常的に使っている「社会」「個人」といった言葉は、明治初期に翻訳語として急ごしらえでつくられたものである。それまでわが国には、これに相当する言葉が存在しなかった。言葉がなかったということは、実体もなかったことを示している。

では、代わりに何があったのだろうか。

そこにあったのは「世間」であり、それは大小さまざまの「ムラ」によって構成されていた。そして、人々はみな、「ムラ」の「構成員」だったのである。「ムラ」の「構成員」は、基本的に同質でなければならず、「構成員」の「個」が際立つことは歓迎されない。「ムラ」では慣習や前例が重んじられ、「空気」という名の不文律によって秩序立てられている。「構成員」はその不文律に忠実であることが求められる。

一方、輸入された「社会」という概念は、それぞれが異なった感性や思想信条を持った「個人」の集合体として定義されている。一人一人が個性ある存在として認められ、権利を享受し義務を負うことになっている。

このように考えてみると、私たち日本人はいまだに「個人」であることが尊重される「社会」に暮らしているとは言い難いことが分かる。明治の文明開化以降、近代国家の概念や制度を採り入れたものの、その内実は依然として「ムラ」のままであり、法秩序よりも「世間」が実権を握っているのだ。

引用ここまで
同じソウスでは
「ムラ」の語源は「群れ」
とあります。「群れ」はすなわち、個人として成り立たない未熟な人がとる行動ともあります。つまるところ、主体性のない人が集まっているのが「ムラ」になるのです。

そうなると、にわかに問題になるのが
村八分
です。

ソウス「ムラ社会と「日本の経営」 閉ざされた生産社会をどう生きるか」より

…どうやら農村の価値観が支配する社会では、我を貫いて生きることはルール違反とみなされるようだ。

 もともと農業は、農家が孤立して営まれるものではなかった。田植えや稲刈り、それから屋根葺きなどは、かなりの労力が必要な作業である。そのため、ムラの人びとが団結し、農家ごと順番に作業を行うことで、相互扶助が行われていた。ムラ共同体が一つの生産システムとして、機能していたわけである。

 ムラの生産システムは、各自が歩調を合わせることで維持されてきた。過去からの習俗は、一見すると合理的でないように思われても、機能しているのだからそれでよいとみなされた。あるいは、非合理性に気づく機会もまた、少なかったのだろう。

…中略…

明治以降、新しい法規範のもと、自己の「権利」に目覚め、ムラの外の価値基準によって行動する人びとが現れてきた。

 そこで、ムラの秩序に従わない人は、つまはじき者になる。いわゆるムラ八分である。当時はすでに共同体の生産システムは弱体化していたから、ムラの結束を固めるために、ムラ八分は急増した。なかには周囲に働きかけてムラの掟を壊そうとする者もいたが、多くの場合、ムラから出ていくこととなった。個人の力では、どうしようもなかったからである。

 だが、民俗学者の宮本常一によれば、「予言者郷里に容れられず」といった西洋的な価値観があったから、彼らの誇りは傷つけられなかった。否むしろ、前向きな選択だったようだ。

…中略…
ムラ的な社会は、合理性や生産性ではなく、調和を目指す。そのため欧米先進国とは異なり、非生産的な活動が残存している。それに異議を唱える者は、秩序を乱す者として諫められる。行き過ぎれば、つまはじき者となる。

 転職は悪だとの風潮が変わってきたことは、自己実現の欲求をもつ人には幸運であった。彼らは自分自身を変えようと努力してきたから、実力もまた蓄えている。かくして、日本的な組織から離れていくのは、有能な人材となる。かれらはより合理的で、より有意義な働き方のできる組織へと移っていく。


 これらの人びとは、集団の価値観に埋没しなかったからこそ、有能になれた。周りの非難を覚悟し、新たなことに挑戦することで、自分自身であろうとした。言いかえれば、ムラ的な集団の中で活動したからこそ、彼らは鍛えられたのだ。

今私がやっているのは、まさにこのことです。

ただ残念なのは、バルーン業界がごく一部ではあるものの、「村社会」化しているという現実が…どうして日本人は「群れ」るのか…