2018年10月27日土曜日

同調圧力と自己犠牲と…

こんにちは。
たまに思い出したようにこちらには書き込みます。

いくら表面はきらきらピカピカしている人でも、内面には深い闇を抱えていることが多くあります。私も親、とりわけ母親の問題など、深い闇があります。そういうダークな内容はすべてここに書き込んでいます。

今日は見出しの通り
同調圧力と自己犠牲
のテーマでお届けしましょう。

先日、町内会の秋祭りに「動員」された。幸いこの日はトップシーズン(2018年10月…イベントシーズンなのでバルーンアーティストは引っ張りだこ)としては珍しい日曜オフ。よって応じることができたのだが、複数の人から聞き捨てならないことを耳にした。
「仕事を休んで参加している」


これはまだよい。ちゃんと職場の了解を得られる状況にある。
問題はその続き。
「全員参加のイベントの当日、イベント参加を断って町内会のほうに参加している」
!?!?

これはやってはいけません!

これは
自己犠牲
です!

というか、町内会とPTAはもはや
自己犠牲の精神で回り、成り立っている
のが現状なのです。

それに行政が頼っているのが現状です。本来税金からすべき行政サービスをタダ同然で町内会に押し付け、「協働」「絆」の美名のもとに行政サービスの簡素化を進めようとしている自治体が一部であるのです。介護、高齢者保護、さらには路線バス運行に至るまで、民間業者がすべきサービスを町内会が無償で営む方向に仕向けているケースさえあります。
ソウス1

…同市の住宅団地街で、地元のバス路線の撤退を受けて、住民らは市によるコミュニティバスを最初は要求するものの実現しませんでした。
代わりにつくられたのが、“自治会”(のぞみが丘小学校区協働のまちづくり協議会)が運営主体となるバス「ベレッサ号」。住宅団地、駅、商業施設を結びます。
運賃を無料とし、運転手をボランティアとすることで、「自家用車」を運転するという体裁にしました。
えっ、ボランティア! というのが、まず驚きというか不安になるところです。
「ベレッサ号の運転手は現在40〜70代の17人で、年に1回は元バス運転手が同乗して運転を指導。運転中に危険を感じた『ヒヤリハット事例』を共有して解決策を話し合う機会も毎月設けている」(西日本新聞夕刊2016年12月22日付)
「基本的に高齢者のご利用が多いことや運行スケジュールがゆったりしていることもあり、時速40キロメートルくらいの安全運転を心掛けています。そのおかげか(2016年)3月末で運行開始から5年になりますが、現在まで無事故・無違反での運行をしています」(ベレッサ号のボランティア運転手・平島正治さん)
「今でも無事故・無違反ですか」と尋ねたところ、「車をこする自損事故は1つだけありましたが、それ以外は無事故・無違反のままです」という回答が同協議会事務局から、市の担当者を通じてありました。
これは、すごいことです。
行政はガソリン代などを支援し、企業は車両を寄贈。住民主体で生活の「足」を確保――厚生労働省の「地域力強化検討会」がうたう、模範的な「地域課題の解決」に見えます。…(上記「ソウス1」より引用ここまで)
これは福岡県のある市での実例だが、結局のところこのような「地域力強化」が成功しているのは非常に数少ない。そのような特殊ケースを全国に広めるために町内会強化が行われているところが散見される。
はっきり言って上記リンク元の記事にもあるように、これは
美談
である。背後にあるのは
自己犠牲をいとわない精神の持ち主
である。そういう人たちを日本という国は育てようとしているのか?というか、
かつては育てていたし、今また育てようとしている
のである。

そこで、ソウス2
…とくに日本の場合だと、集団が一丸となって(自己犠牲も含めて)何かに打ち込むことそのものを「立派だ」「尊い」と言って無批判に肯定したり、とにかく持て囃して盛り上げるという文化も、自己犠牲に対する認識の甘さを助長していると考えることができます。…


…自己犠牲をせずにローリスクな方法で結果を出している人を見つけてはお節介のように「若いうちの苦労は買ってでもするべき」「もっと本気で努力しないと意味がない」と口出ししてきて、自分の支払った犠牲は無駄ではなかったという確認作業に勤しんでしまうことがあるのです。
確かに、自分にとって価値あるものを支払ってまで行ってきたことが、ただの徒労であると認めるのは大きな苦痛だと思います。
しかし、その苦痛から逃れるだけでなく、同じような仲間を見つけて他人を教育するという体裁で、実は優しく支配して自分と同じ自己犠牲に巻き込もうとしているのです。…

さらに、ソウス3ソウス4
この「ソウス3」と「ソウス4」は、道徳の教科書の中身になるので、引用は見合わせるが、「ソウス3」は「星野君の二塁打」、「ソウス4」は「手品師」としていずれも道徳の教科書に載っている。

どちらも内容を踏まえて是非を議論するに値する内容で、いずれも正解はない。きちんと自分の意見をこの二つの事象に対して言えるようにするのが本来すべき教育だと思う。しかし、この二つの事象を用いて教科書では特定の価値観を「正解」とし、それに沿わない価値観は「間違い」として×をつけられる。

現時点で道徳は点数評価を行っていない、すなわち議論の余地を残しているので、まだ許せるが、もし特定の価値観のみを正解とするような方向性の指導を教諭、あるいは教育委員会主導で行ったらどうなるか。

さらに「ソウス3(=星野君の二塁打)」は、原作の意図が教科書の中で捻じ曲げられている、とさえ評されている。教科書の狙いは
犠牲の精神を植え付けること
とさえ受け取られても仕方ない内容になっているというではないか。

もっと言えば、道徳の教科書の低学年向けにあるのがこれ。
「かぼちゃのつる」
どんどん伸びるカボチャのつるがどんどんよその畑に入っていき、最後はトラックに弦を切られるという話なのだが、一つ間違えるとこれは
個性の否定
につながりかねない内容である。

つまるところ、これでは
国家に都合の良い人材の育成
を狙っているとしか思えない。このような教育をしている限り、あるいは町内会のために自らすべき仕事を放棄している限り、その先に明るい未来があるとは考えられない。あるのは
国力の衰退
である。

もっと言えば、「絆」は本来「ほだし」で、人々の行動を縛るものである。町内会は「地域の絆」を作るために様々な行事に取り組んでいるが、これが「ほだし」になっている。社会の変化についていけてない。そこにあるものは
自己犠牲の精神に裏打ちされた同調圧力
である。これに基づいた社会を目指そうとしている行政が存在するのだから、もはやどうしようもない。というか、これは
戦前回帰
に近い。

意味もなくこのようなことをするのなら、鹿児島県の知覧にある「特攻記念会館」に行って、特攻隊員が出撃の前に残した手紙などを見るがよい。こちらのほうがよっぽど道徳を学べる。


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