久しぶりに親の問題をこのブログでとりあげます。
オヤカク
という言葉が就活用語になってしまっている現状があります。
その背景で起きている問題に焦点を当てたサイトを見つけました。
親とお金で考える就職活動
このサイトによれば、親の過干渉で新卒就活に失敗した事例が複数掲載されています。
子供を自立させるはずが、子供の自立を阻み、子供の人生を狂わせる親の多いこと多いこと。
私の母親もこの類です。
というより、20年ほど前にこのような親は問題になっていたでしょうか…いなかったはずです。
福祉を家族だけに任せ切るような、儒教に頼った社会を日本の一部の政治家たちは指向しています。
ソウス
韓国に老人福祉法という法律がありますが、今でもその第3条には「国家と国民は敬老孝親の美風良俗にともなう健全な家族制度が、維持・発展するように努力しなければならない」というふうに規定されていて、要するに老人の扶養の最終的責任は、あくまで家族制度にあるのだと明言されています。政府はそうした家族制度が壊れないように努めるけれど、家族に福祉の責任を押し付けるということです。韓国のように資源のない社会が急速に発展しようと思えば、福祉はどうしても後回しになります。その時に都合が良かったのが、儒教という伝統なわけです。
日本にも儒教的伝統があるのですが、韓国の儒教との大きな違いが親孝行の「孝」という概念です。中国や韓国におけるそれは、日本人の考え方より広くて深いといえます。日本人にとっての孝というのは、生きている親を大事にするということに尽きると思うのですけれども、韓国人にとっての孝には大きくいって3つのレベルがあります。1つは、すでに亡くなっている祖先の霊を祀ること。2番目に生きている親を大事にすること。3番目に大事なのが、祖先から受け継いだ血統を伝えていくことです。つまり、子孫を残して、祖先を祀る連綿たる系譜を絶やさないようにすることです。これが儒教的な孝の概念で、日本人が想像する孝の概念よりも、宗教や生命観に近いものだといえます。
生きている人間だけじゃない、もうすでに死んでしまった祖先も、これから生まれてくる子孫も含めて、ずーっと永遠の生命の連鎖を絶やさないようにするということが儒教の本質にあります。どっちかというと日本の仏教に近いというか、ちなみに、日本の仏教の中には日本人が意識していないけど、本来の仏教とかけ離れた儒教的な要素がいっぱい入っています。現実には、韓国は近代化する中で、そういう伝統を置き去りにし、その代償の上に発展を築いてきたのですけれども、政府にとって都合の良いところだけこうやってつまみ食いをするわけです。
引用ここまで
このソウスには続きがあり、ひいては韓国における葬送文化の変化にまで話は及んでいるのだが、いずれにせよいえるのは韓国や中国では発達障害に対するケアがかなり立ち遅れているどころか、自己責任論の一環に組み込まれ、「棄民」の対象になり、最後は家族が面倒を見るのが必須になっている現状があるということである。
またあるサイトで、九州の一部にいわゆる「毒親」が多いという話を見聞きしたことがある(私は父親・母親とも「毒親」の多い地域出身)が、これらの地域は中国や韓国とのつながりが古の昔から安土桃山時代にかけて強く、一部では鎖国されていた江戸時代でもつながりがあったとされている(薩摩藩と琉球の関係など…薩摩藩は琉球を通して、実質明→清とのつながりがあった)。
結局は儒教が幅を利かしていたわけだ。
この「儒教」の価値観が曲者と言わざるを得ません。
というか、時の為政者は儒教を都合のいいところだけつまみ食いする傾向があります。中国、韓国、そして日本…日本の場合、江戸幕府から今日に至るまで、儒教的価値観が幅を利かしています。儒教と社会福祉の価値観は相反しているような気が私はしてならないのです
…就労した今でも、この疑問は残りました。確かに儒教を「活用」することによって、政治の負担は軽減されるのが事実ですが…このような現実があるから、「オヤカク」が就活用語になるのかもしれません。
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