2017年2月7日火曜日

謙譲の美徳、武士道…果たして子どもたちに有益か?

こんばんは。
日本人の自己肯定感の低さが、日本人独特の
謙譲の美徳
武士道
と関係しているのでは、という説がまことしとやかに言われています。

アメリカ…約89%
中国…約87%
韓国…約75%
日本…約36%

これは、「自分自身を価値ある人間と思う」という文部科学省の高校生に対するアンケート調査の結果であるが、日本だけが著しく低い。

褒められているのを、「いやいや」と否定する親…これが結果的に、子どもに
否定的な思考回路
を作っていることになってしまっているという。
子どもに謙譲の美徳を理解せよ、というのが困難である。

しかし、私は謙遜の美徳を理解してしまった。それもゆがんだ形で。
その結果、ひたすら自分を低くする考えが身についてしまった。これも自己評価を著しく低くする一因になってしまった。

そして武士道。
相手を立てるのが武士道の基本という。

私は現役のバルーンアーティスト時代、「武士道」を通し続けた。
何があっても相手が最優先であり、自分にいかなる理由があれど、相手の言い分を最優先した。たとえ自分に何ら非がなくても、相手の言い分を全部聞き入れていた。

これらの日本独特の文化、
相手を立て、自らを低くする
ということを私はかつて徹底していた。それが筋を通すことであるとかたくなに信じていた。

さらに、私の両親の考えが儒教に基づいていた。

私の父親の先祖は江戸時代、下級武士の家だったという。一方母親の先祖も「在郷武士」。加えて母親は薩摩島津藩の城下、鶴丸城(=鹿児島城)の城下町にルーツがある。薩摩島津藩はあの「郷中教育」で有名であり、鹿児島独特の生きにくさに今でもつながっているとされる。数年前に放映されていた「薩摩剣士隼人第2部完結編」で、鹿児島へ急ぐローカルヒーローである隼人に向かって悪役「ヤッセンボー」の一味である「くぐり狐衆」が街道に立ちはだかり
「お前はこの鹿児島をどう思う…すべての人が自分らしく生きられる社会と思うか!」
という場面はその象徴であり、これを公式ユーチューブで見たとき
自分が直面している生きづらさが鹿児島の風土と深くかかわっていた
と認識した。
男は男らしく、女は女らしく、謙譲し相手を立て、自分を低く見せるのが美徳
というのが薩摩の文化。
一方の父親は葉隠で有名な肥前の出身。この「葉隠」がまた儒教の影響を色濃く見せた武士道を説く教本。

このような謙譲と武士道の美徳を基本とする家に生まれ育ち、しかも生まれた子供は自閉症。両親、とりわけ母親の精神的重圧は大きかったのは推して知るべし。その結果、厳しすぎる躾に走ってしまったのは容易に察することができる。
このような環境の中で自己肯定感を培うのは非常に困難であった。結果、私は自閉症の症状は治まったが、チックと発達障がいの症状が今でも出ている。とりわけ異食症がひどい。

これらの症状は親からの圧力がひどかったり、愛情が不足している場合に出ることが多い、ということを最近になって知った。

そして、振り返ってみる。
つい最近まで、自分の考えは「武士道」に基づいていた。
だから、お客様を満足させることができなければ代金をいただかない、というようなことまでしてしまったのかもしれない。(これを私は「返還欠場」と呼んでいた)
親の行き過ぎた躾に対抗しようとして、そしてそれを乗り越えようとして、私は風船にここまでのめり込んだ節がある。その結果生み出したものはものすごいものだったが、それを全然「すごい」とは思わず、むしろ「当たり前」と思い、それどころか「もっと上がいる」と、雲の上の高みを目指していたのがかつての自分であった。
結果、引退を余儀なくされ、一度離れて客観的に見て、ようやく自分がしてきたことのすごさに気が付いた。同時に自分を取り巻く「生きにくさ」の正体に向き合うことができた。そうしてやっと「自己肯定感」を実感できた。

幼少期に培われた自己否定の思考回路を改めるには、あまりにも莫大な労力と時間がかかってしまう。そして、自分とひたすら向き合う、塗炭の苦しみを味わうことになる。
このような苦しみをこれ以上子どもたちに味わせたくない。そのためには、
結果だけではなくそのプロセスを評価して褒め、達成感を味わせるような教育が重要なのである。

今、私は
心に中にくす玉を持ってほしい
ということを主張している。
そのくす玉を花開かせるための努力を尊重し、成功体験というくす玉を花開かせることの積み重ねが、人生の大輪の華を咲かせ、その人が輝く人生を送ることができる
と私は考えている。その背景にあるのが
私がしてきたようなつらい経験をする子どもを減らしたい
という願いからである。


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