2019年3月27日水曜日

親孝行は子どもが果たすべき義務です!?

こんにちは。
今日はソウスから引用。

…元々の意味の『親孝行』っていうのは、もっと強烈な意味を持っています。
『親孝行』の語源でもある、儒教の中心的教義である『孝』。これは、「親には絶対服従」です。特に、父親です。
だから、本来の『親孝行』っていうのは、「親を敬い、親に服従し、親に感謝しなければならない」っていうものです。子どもの意志は関係ありません。義務なんです。
…(中略)…
本来の『道徳』っていうのは、親や、君主が市民を支配するために、学ぶべき教えとして体系化したものなんです。「この教えを理解できたものは、地位を上げてやる」みたいな感じでね。
つまり、『道徳』っていうのは、宗教思想であり、宗教的なルールなんです。「人であれば、誰でも学んでおくべきもの」なんていうのは、幻想にすぎないわけです。宗教思想っていうことは、真理ではなく、一つの信念であり、信仰です。
だから、『道徳』の言葉は、儒教で語られる義務であり、ルールなので、「べきねば論」が全てを占めます。僕らに選択の余地は残されていません。道徳に背けば、罪悪感に苛まれます。
この道徳の中に、『親孝行』も含まれますよね。ということは、「親には、育ててもらった感謝や、恩返しをしましょう」っていう生易しいものじゃなくて、「親には、育ててもらった感謝や、恩返しをしなければならない」っていうけっこう厳しいものが本来の意味です。
…(中略)…
『親孝行』や、『親不孝』っていう言葉って、親自身にも染み付いている言葉です。だから、「親には感謝すべきもの」という義務化された思想が残っていると、「これだけしてやったのに!!」っていう想いが湧きたってくるわけです。
でも、「これだけしてやったのに!!」っていう想いって、その想いを浮かべることが悪いわけじゃないんです。
『親孝行』や、『親不孝』の発想が、親目線で言えば、「親なんだから、これくらいして当たり前」「親は、子どものためにいろいろしてあげなければいけない」「子どもの成長は、親の責任」みたいな、親としての使命感というか、義務感に繋がってきます。
『孝』という発想は、家系や、子孫の繁栄を目指しているから、
1.祖先崇拝
2.父母の尊敬
3.子どもを作る
っていう感じで、自分や、その家系を存続していこうという目的を持っています。
家系の存続を考えれば、「子どもをちゃんと育てよう」という意識が出てくることも自然な発想ですよね。
で、「子どもをちゃんと育てよう」の『ちゃんと』は、儒教的な『道徳』や、『孝』の考え方になるわけです。
引用ここまで

この考え、私の考えに非常に近い、というかほとんど同じなので、引用させていただきました。
私の考えと一致するものは色を変えて強調しています。

一方で、私はこう信じています。

よしんば親が過ちを犯せど、子どもは泣いてそれに従わなければならない

私は「たとえ親が過ちを犯していても、子どもはそれに従う義務がある」という考えを根幹に持っています。その義務を果たせないから、今こうやって悩んでいるのです。

ではなぜ、義務が果たせないのか…
「私が親に対する義務を果たそうとすると、自分が目指すべき生き方と大きく齟齬をきたしてしまう」
言い換えれば
「私自らが自分の人生を選択することはすなわち、両親に対する背信行為である」
もっといえば
「親不孝は犯罪に等しく、万死に値する」
とまで考えています。
結果、私は「どうしようもない二律背反、ジレンマ」に陥ってしまうのです。儒教の道徳、倫理に従おうとすると自分の人生を捨てて、親の言うことに全面的に従う人生を歩むことになり、一方自分の望む生き方をすると、親を見捨てる(あるいは骨までしゃぶりつくす)ことになってしまうのです。

これに私の家族は全員苦しめられています。私の母親も父親も、自ら死を選んだ叔母も、もう一人の叔母も、さらには私のいとこ(長いこと引きこもりだったらしい)も、全員が苦しんでいます。
これは「負の連鎖」以外の何物でもありません。

先ほどのソウスからもう一度引用します。

もしも、『親孝行』が子どもの善意であり、子どもの自由意志に委ねられたものであれば、『親不孝』なんて言葉はいりません。本当に、子どもが親に感謝をしているんだったら、義務がなくても、ルールが無くても、自然の欲求として、親に感謝しますよね。でも、そんな自由意志に任せてしまうと、子どもによっては、親に感謝する子と、しない子が出てくる。「それはマズイ」っていうことで、『親孝行』という言葉を作って、義務化する必要があったんです。
なぜ、義務化する必要があったかと言えば、
親→子→孫
という順序で、支配構造を作りたかったから、です。
引用ここまで
たびたび主張する「国家を安定させるために作られた支配構造」の結果の「儒教(=朱子学)の施政者によるつまみ食い」であり、「家族の絆に頼ろうとして自らの責務を放棄する行政」のよりどころでもあるのです。そのやり方がグローバル化及び情報社会の深化、そしてAIなどの技術の進化などによって通用しなくなっているのが今の状況なのです。
その結果、「厳しすぎる躾」は「虐待」になり、「幼少期の子育てが重要」になってくるのです。
一方で、これは一種の「優生思想」であると同時に、「自然淘汰」にもつながると思います。私の母方の家、すなわち私の祖父母、さらにはその先祖に大きな問題があると私は考えており、その背景には鶴丸城下の郷中教育も影響していると考えています(郷中教育は本来そのようなものではなかったはずなのですが)。そのため、私は既に生涯独身を決めています。

結局のところ、幼少期に厳しすぎる躾を受け、その悪影響を受けた人たちが結婚できず、家系断絶
になる、と私は見ています。私は
このような問題が大いにある家系は断絶したほうが世のため
とまで考えるようになりました。そうなると、私が果たす義務は以下の二つだけになります。それは
両親より早く死んではいけない
両親を殺したり、暴力をふるってはいけない
ということです。たとえ齟齬が生じても
親孝行の義務はない
のです。



2019年3月24日日曜日

「発達障害」と「愛着障害」…その違い

こんばんは。
最近、私は生まれつきの自閉症(=「発達障害」=「アスペルガー症候群」)に加えて、「愛着障害」ではないのか、と思い始めています。

「愛着障害」の症状としては…(ソウス

小さいうちは“おとなしく育てやすい子”ですが、幼稚園、小学校に入学してから問題行動を起こすようになります。
初めての集団生活の中で友達を叩くなど多少の喧嘩は誰しもありますが、その衝動的・破壊的行動がいつまでも止まず激しくなります。
母親から得られなかった愛情を他の大人に求めて、保育士が他の子に関わっているとそれを妨害するように机をひっくり返したり、物を壊したりすることもあります。
表面的なものは収まっても、大人になってから、次のようなケースも起こります。
例えば…
  • 特定の人と親密な関係が築けない。
  • 恋愛で恋人が離れていかないようにわざと相手を困らせるようなことをしてしまい、失敗する。
  • 人と親しい関係になるのがわずわらしいと考える
  • 他人からの評価を異常に気にする
  • 自分が嫌いで自己肯定感が低い
  • 人に頼ったり甘えることができない
  • 他人にSOSを出して助けを求めることができない
  • 自分の気持ちは押さえて相手ばかりに合わせてしまう
  • 拒否されたり傷つくことに敏感
  • 嫌われないかといつもビクビクしている
  • 見知らぬ人にも近寄りすぎる
これらは幼い頃に親から愛情を与えられなかった経験が、他人との関係性にまで影響を及ぼしている例です。

かくいう私ですが
赤字は強い傾向を示しています。
橙字はややその傾向を示しています。
紫字はかつてその傾向が強かったですが、最近やっと克服できたものです。
緑字はどちらかといえばそうではないです。

そして、「発達障害」と「愛着障害」は併発しやすい(特に「アスペルガー症候群」の場合)という記述もあります。ソウス

自閉症の子どもは、親の後を追わなかったり、一人で寝かせていても平気だったり、乳幼児期に「あまり手がかからない子だった」と言われることがあります。
そうなると、母親は「おとなしくしている扱いやすいいい子」と思ってしまい、一人遊びをずっとさせることもあります。結果、愛情不足になってしまうこともあります。
また、反対にちょっとしたことで火がついたように泣く敏感な子どももいます。こうなると「とても育てにくい子」として育児に悩みます。
更に少し大きくなってもこれが自閉症だと気づかれぬまま、幼稚園、保育園に入園し、ひと時もじっとしていなかったり、集団行動がとれないと場合、「どうして、みんなは出来ているのにあなたは出来ないの!」と激しい叱責をしたり、厳し過ぎるしつけをしたり……。
その結果、子どもには不安感が増し、結果的に愛着障害と同じような状態に陥ることもあります。
また知識のない母親の中にはその特性を理解できず、障害を受け入れることができずに中には虐待してしまうケースもあります。
実際、発達障害の子どもは健常児と比べて4倍も虐待を受けるパーセンテージが高くなっていると言われています。
そうなると“発達障害+愛着障害”の両方が重なることになります。

同じソウスには、「自分がこうなったと自覚している場合の対処法」もあります。

どんなに小さなことでもいいので、“自分が認められる体験”を今から積むのです。
幼いころに得られなかった“人から大事にされる、認められる”という経験をこれから積んで、自分に自信を持てるように回復させるしかないのです。
自分が他人との関係性がうまくとれず悩んでいたとしても、過去に時間を巻き戻して親に“育て直し”をしてもらうことは不可能です。
(中略)
親を反面教師にして自分がされていないことをわが子にすることは、なかなかハードルが高いかもしれませんが……。わが子が将来苦しまないようにするためにも、しっかりと親子の絆を今から深めていきましょう。

私の場合、「あれ」がまさに「自分が認められるための体験を積む手段」となったのです。「あれ」がなかったら、今頃自ら命を絶ってこの世に存在していないか、親を殺して塀の中にいる(あるいは国家によって殺処分されている)かもしれなかったのです。

私はこれからの人生、私と同じような苦しみを味わう子どもたちを少しでも減らすことに尽力したいです。そのために「あれ」を続けます。

しかし、それを許さないのが私の両親です。

7年前、2012年、それを力ずくで奪いました。母親は自殺未遂をしてしまいました。聞くと自殺未遂は2度目。私が幼少のころ、それこそ自閉症の原因がわからず、もがき苦しんでた頃、一家心中を試みたそうです。父親が止めたそうです。
自殺未遂の話を聞いて、私は「あれ」を辞める決断をしました。

その後、母親の家に「負の」家系譜が存在していたことが分かりました。母親には兄がいて、母親が生まれる前に栄養失調で亡くなっていたとのこと。亡くなったのが昭和21年、1946年のことでした。この年は2月に預金封鎖、3月に桜島大噴火(昭和噴火)と続いており、それまで鶴丸城下の御用商人の流れを汲むゆえ富裕層とされた一方、薩摩藩故、郷中教育の流れをくむ厳格な男尊女卑の教育の影響をも受けていた母親の家は一気に貧しくなったと聞きます。
それゆえ、母親は「毒親」になってしまったのかもしれません。母親の妹である私の叔母は、生涯恋愛もせず、結婚もせず、母方の祖父母に仕え、祖父母亡き後は自分の人生の価値を見失って「ゴミ屋敷」化してしまい、最後は救急車を呼べば助かったにもかかわらず救急車を呼ばずに自ら座して死を選んだのです。
これで私の両親は
「自分の人生は親の言うとおりに従う」
という「イエ」の流れに沿って生きてきて、そこに自分の人生は存在しなかったことがはっきりしました。
このような人生を歩んできたゆえ、その親に従うのが私の義務であるのが本来です。それが「孝」であり、それを全うするのが「親孝行」なのです。私は本来
親孝行は義務である
という考えです。今でもこの考えです。
しかし、いま私は自らこの考えを破っています。
破らないと生きていけないのです。

2019年3月20日水曜日

会社を離れることになって…思うこと

ご無沙汰しています。
実は、この3月末で会社を辞めることになりました。正確には
「会社から放逐されることになった」
のです。

理由は、「あれ」の今後の在り方について、社長と対立したことが直接的なものです…が

突き詰めていくと、本当の理由がわかってきたのです。

辞める会社、正確に言うとこの記事は2019年3月に書いているので、まだ在籍している(すなわち有給休暇消化中)のですが、2月ごろから新しい経営方針と基本理念がちらほら伝わってきたのです。この経営方針と基本理念は4月から正式にスタートするそうです。そして、その新方針と新理念の背後にある、「曼荼羅チャート」なるものを私は目にしました。この「曼荼羅チャート」、詳しくは40分近い時間をかけて社長が一つ一つ丁寧に説明していったのですが、そこに私が首になる理由が見えたのです。

早い話
選択と集中
だったのです。

それを感じた私は、改めて2015年前後のこのブログの記事を読み直してみました。すると、
「会社が大きく方向を変えるとき、不要になった人材はバスを下ろされる」
ということが分かりました。

つまるところ、
会社の方向性が変化し、自らの方向性と大きくずれてしまった
ことに今回の原因があると判断しました。有名な経営の教科書「ビジョナリーカンパニー」によれば、私が解雇されるのは「自明の理」だったのです。(正確に私が読んだのは「ビジョナリーカンパニー」そのものではなく、その「解説書」「ガイド」に類するものでしたが)

そして、私が再就職しようとすると、かなりの困難を伴うこともわかりました。いわゆる「学び捨て」(学習放棄、脱学習、アンラーン)をしなければいけないことが分かったのです。「学びほぐし」という言葉もありますが、そのような生易しいレベルではありません。
型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。(ヘレンケラー談)

この「編み直し」がかなりの困難を伴うのです。ソウス

これができる人は「伸びしろ」があり、転職市場で高い評価を受けるのです。しかし、そのような人はほんの一握りです。現状の転職市場で、
一番就職困難な人は私のような人、すなわち「優秀で仕事ができる人」なのです。
なぜなら「自分というものがしっかり出来上がっている」からです。このような人は再就職は困難です。1年経過しようが2年経過しようが、不採用の山を築くことになり、挙句の果ては「3年の間に、500社近く落とされる」ということになりかねないのです。応募書類だけで30万近い金がかかっていることになります。1か月あたり手取り15万程度の仕事に就職するのに3年で30万、1年で10万近い金がかかっているのです…これが現実で、コストパフォーマンス上どうなのでしょうか?

しかし、これをしないといけない人もいるのです。私も仮に再就職活動をするとなると、このような
泥沼
にはまる危険が高いです。
この泥沼にはまりそうになった段階で、速やかに再就職活動を止める、という選択肢も今回は想定しています。

ただ、今回会社を辞める直接の理由が「あれ」がらみですし、そもそも会社一本でやっていくこと自体困難なのが現状です。働き方がそれだけ多様化しているのもまた事実で、その事実に制度が付いていけてない現状のほうが問題だと私は思うのですが。