2015年2月28日土曜日

学習棄却(アンラーン)の必要性に直面して…

こんにちは。


今の自分に一番必要なものが今日の見出しです。


学習棄却、アンラーンとは、
経験したもの、得た知識、そしてこれまでの蓄積をすべて一度捨て去る
ことである。


特に一つの道を切り開いたり、極めた人にとっては、ある意味一番至難で厳しいことなのかもしれない。


しかしこれをしないと次へ進めない状況が生じている人がいるのもまた事実である。


ほかならぬ私自身が今この状況にある。


この視点、アプローチが正直どこも欠けていると私は痛感している。本当にわかっているのはごく一部のビジネスパーソン、それも「超一流」と呼ばれるトップクラスのビジネスパーソンだけというのが現状である。


まずバルーン業界。
これまで述べてきたとおり、市場環境そのものが大きく変化している。
ブライダルやイベントでの需要は大きく減り、一方でギフト需要は伸びているものの、供給過剰気味である。
そしてちょっとした町にはほとんどバルーンショップができて、ネットショップは個性を競う状況になっている一方、100円ショップでもヘリウム入りバルーンが売られているという現状があり、特にここ広島では一番の風船の入手もとがダ○ソーという実態である。
このような状況下では、私が何度も言っているように
ただ風船を膨らませるだけのバルーンデコレーターはもういらない
一番大切なのは風船で何がしたいのか、そして何ができるのかを提案することである
ということなのである。
それを踏まえて私がつくりあげてきたもの、そして私が目指しているものを考える必要がある。


バルーン業界についてはこの程度でとどめておく。


今日はここからが本題。
転職する際に一番必要なことは何かなのである。


私はこれまで、ありのままの自分で面接に臨んでいた。


それでいいところもあるにはあるが、これでは単なる「労働力」として採用されるにすぎない、ということをここ数日の間に痛感した。
転職をする際、本当に求められているのはこれまでやってきたことを踏まえ、何ができるのか、ということではないことを痛感する出来事が先日起きた。
それを一度捨て去ることができるのかが一番重要なのだった。


なぜか。


ソウス(「日本の人事部」アンラーニングの方向性 より)


熟達者になるには長い経験が必要ですが、それは特定の領域においてのみ優れている人です。つまり、熟達化を進めるには、長期的に安定した領域が存在していることが前提です。しかし、ビジネスの世界は、一定時間ごとにルールが変わるゲームのようなものです。環境が変われば、価値観も役割も変わります。特に現代のような変化の激しい環境下では、かつての経験が必ずしも有効とはならないのです。むしろ、過去の経験そのものが、新たな環境に適応する際の妨げとなることの方が多いのではないでしょうか。
そんな中で10年もかけて一つの道を究めても、熟達者になったときにはもう違うルールのゲームが行われているのです。こうした分野では、熟達という概念自体が無意味なものとなってしまいます。それは、熟達を強く意識しすぎることが、時代遅れになった価値観や考え方、行動パターンに気づくことを遅らせることにつながるからです。

引用ここまで


私がバルーンアーティストとして現役で活動していた際の末期に直面したことは、まさしくこれだった。


そして転職する際に一番必要なのは、
一度すべてを捨て去ること
だったのだ。


一度すべてを捨て去るという指導を、どこの転職エージェントがしているのだろうか。
というか、そのような転職指導は今まで聞いたことがなかったし、見たこともなかった。
ネットで調べてみたが、やはり出てこない。


Weblio辞書 によると、
個人や組織が激しい環境変化に適応して、継続的な成長を遂げるためには、いわゆる学習(ラーニング)と学習棄却(アンラーニング)という、2種類の一見相反する学びのプロセスのサイクルをたえず回していくことが不可欠
とある。先ほどのソウスも引用されている。


どうやら、かなりの覚悟と期間が必要な状況である。
というか、これをしないと私は転職できない、というのが結論。


この現実を前にして、私は相当悩んでいる。
というか、「親の言うとおりに再就職するとしたら、これは相当の覚悟と期間が必要なのではないか。それを分かった上での親の言動なのか」という疑問が以前から湧いていた。
これができる人にならないといけないのが今の私。それを邪魔しているのが私が築き上げた経験であり実績。
そのような状況に置かれる人というのは、やはりごく限られた人。言い換えれば
何か一つでも輝かしい大きな実績と経験をした人でないと、このような状況に直面しないし、その中でもこのようなリセットが必要な状況に直面するに至る人はさらにごく限られた人なのが現状。


発達障害や精神障害を抱えた人にとって、これはかなりの困難を伴う。場合によっては1年や2年では終わらない。下手をすると5年以上かかる。これに取り組みながらの転職活動は、できるなら回避した方がよい。なぜなら
その間にも生活していかなければならないのが現実
だからである。


親の言っていることに対して「これは困難の極みだ。可能な限り回避した方がよい」と常々感じていたが、その理由がここ数日の間でやっとわかった。


そして一番必要なのがアンラーニング、学習棄却だったという現実に直面した私。
どうすればいのか…途方に暮れている。

2015年2月27日金曜日

どうして親にうそをつかざるを得ないのか?

おはようございます。


幼児、特に3歳から5歳ぐらいのお子さんをお持ちの親の悩みでときどき聞かれるのが
「子供が嘘をつく」
ということ。


もし子供が嘘をついている際、厳しく叱責を繰り返そうものなら、後々大変なことになる。


早い段階で親の方が気づけばいいのだが、一歩間違うと子供は自己保身のためにうそをつく習慣が身についてしまう。
そして
親は厳しい叱責を繰り返す→子供は自己保身のためにうそをつく→親はまた厳しい叱責を繰り返す
という悪循環に陥ってしまう。


そして子供は次のいずれかに陥ってしまう。
家出をする
非行に走る
不登校に陥る
完全主義者になってしまう
私の場合、家出をしたうえ、完全主義者になってしまった。


非行に走った場合、あるいは不登校に陥った場合、この段階で親が間違いに気づくことが多い。その前段階で家出をするケースもある。
問題は家出をしても親が間違いに気づかない場合である。
この場合子供は以下のいずれかになってしまう。


ひきこもり・ニート・SNEPになってしまう
自殺する
犯罪を犯す(場合によっては殺人を犯す)
完全主義者になってしまう(あるいは強迫障害ないしは人格障害を引き起こす)


そして


社会に適合できなくなってしまう
うつ等の精神疾患に陥る
アダルトチルドレンになってしまう


このいずれかになってしまう。


私の場合、
家出→完全主義者+うつ病+アダルトチルドレン
というパターンである。


しかし、私はあえて親を責めない。
70年代の常識は
厳しくしつけることが子供のためになる
といったものであった。これが間違いだったため、ある意味被害を受けた人たちが現代社会にあぶりだされている。これが
発達障害認定者急増
の一因といっても過言ではないと私は思っている。
加えて、
完璧な子育てをすることを親自体がまたその親から求められていた。
こうなると、親を責めるわけにいかない。
今まで経験しなかったような価値観の変化が起きている。
価値観の変化に親がついていけたり、あるいは親が価値観の変化を認めればいいのだが、親によっては
復古主義
に走るケースもある。私の両親がこれにあたる。そして私まで
復古主義に走る傾向がみられるようになった


さらに悪いことに、私は
親の判断基準に従う
ということを自分に課している。本来時代に合わない
儒教
の教えを絶対視するようになった。普通に考えればおかしいことを、自らの行動基準にしてしまうようになった。


ここまでくれば、親の教育(というより洗脳)が成功したということになるのだが、本来の望ましい姿とは大きくかけ離れたものになってしまう。そして世間から相手にされなくなってしまう。


自己評価の低さ(=徹底した自己否定)
完全主義(=100%が最低ライン、白か黒か)


これらはすべて厳格な親の教育の結果といってよい。
厳格な教育の結果、私は
他人の入り込むすきがない、ゆとりのない人
に育ってしまった。こういう人はどんなに実力があっても結果を残せない。というより、今の社会で最も必要とされていない人になってしまっている。


そこで登場するのがバルーン、風船である。
確かにバルーンアーティストとしてあれだけの実績を残すことはできた。しかしそれは、実績を上げることによって親と対等に戦うためであった。
それが世の中の変化で空転し始めると、たちどころに崩壊した。
親は私を取り込んでしまった。取り込まれると
ミイラ取りがミイラになる
結果になってしまう。価値観の齟齬を自分の中できたして、自家撞着に陥ってしまう。だから私は引退を余儀なくされた。


このような構造を打破することは容易ではない。
少なくとも幸いなのは、私が結婚できなかったことである。
なぜなら、仮に結婚していると、
暴力の連鎖が親子間で起きていた
可能性が高いからである。最近多い虐待事案の原因の大半はこれではなかろうか。


一部で復古主義者や懐古主義者が
「発達障害の原因は親の愛情不足にある」
と言っているが、半分正しく半分間違いである。というより
親の認識の間違いが悲劇の根底にある。
それがつい最近まで分からなかった。間違った説が正しいと思われていたのが70年代である。だから

私は親に同情している。そして親を責めることをやめた。

2015年2月23日月曜日

努力は足し算、運は掛け算、要領のよさも掛け算

こんばんは。


どんなに努力しても結果が出ない人がいる。
一方、最小限の努力で最大限の結果を得られる人もいる。


一体どこが違うのか。


私は
運の良さと要領のよさ
にあると考えています。


ソウス(なぜかもてる人の特徴11)


その中に
空気が読める
だの
要領がいい
だのあります。


そして最大の特徴が
自分を大事にする
ことと
周囲に感謝できる
ということです。


この2つ
正直言って幼年期から思春期にかけての親の育て方の結果
だと思います。そこから他の要素が発展すると考えます。


親が甘えを許容し、温かく育てられることによって、おのずと自分を大事にでき、周囲に感謝でき、そしてにじみ出る人柄の良さにつながります。


私には到底及びません。
私の場合、何度も述べているように自己否定の塊で、基本ネガティブです。
親に従えど、感謝できません。親に従うのは儒教を私が信奉しており、子供の果たす義務であり責任だと私は考えています。
親は子供に責任を持ち、子供は親に果たすべき義務がある
というのが私の考えです。


その結果、私はどんなに努力しても結果が出ない体質になってしまったのです。


それを打ち破るために私は風船に出会い、バルーンにすべてを注いできたのです。


結局最後は自分の根っこそのものに道をふさがれてしまいました。


何が原因なのか、ひたすら絡み合った糸をほぐすつらい作業を続けました。
そしてそれが先祖代々連綿と続く、家の在り方にあったと分かったのです。


土、地盤に問題があると、どんなにいいものを作ろうとしてもいつかは根腐れを起こし、倒れてしまいます。
私が抱えていた問題はまさにそこに原因があったのです。


これ以上バルーンをやっても傷口を広げるだけ、今の自分の土壌、地盤にあったものを作り直さないとどんどん状況が悪化する、と私は判断しました。


私はうわべはすごく人にやさしく、人一倍努力をしているように見えます。
だからこそあれだけの結果を生み出せたのです。
しかし、最後はどうにもならないところに泣かされたのです。
それが自らの人間性の根っこにあたるところであったのです。


これが私がかねがね言っている
努力は足し算、運と要領の良さは掛け算
ということなのです。


そして、運と要領のよさは幼年期から思春期までの親の愛情で決まります。かといって、親が愛情の掛け方を間違えてしまって子供に依存するようになってしまうと逆に作用してしまい、結果
運と要領の悪い人
を育ててしまいます。
このメカニズムに気付いたのはつい最近です。というか、コミュ力絶対という状況に至ったのは、ここ数年のことではないでしょうか。その中でようやく
正しい親の愛情の掛け方
というのが見つけ出されたような気がしないでもありません。


いずれ、私と同じようにいくら努力しても結果が出ない人への処方箋を示さないといけません。
一つだけはっきりしているのは
自己肯定力を高めるトレーニングをする必要がある
ということです。私はすでにやっています…というより、
そもそも努力が実りにくいあれだけの悪条件の中で、他人が客観的に見るとあれだけのすごい結果を出したのか
ということ自体が自己肯定の材料になっている…のです。

2015年2月11日水曜日

自己責任至上主義…ゆとりのない社会

おはようございます。


うつになった張本人が言うのもなんですが、私は
自己責任至上主義者
であった。


過去形にしているのは、今はそれほどでもないからである。


というより、自分が「切り捨てられる方」に立場が変わって少しだけわかったからである。


ソウス


これによると、6割近い人が「うつになるのは性格の問題」と考えている現状があり、その結果うつになった人を切り捨てる世の中になってしまったというのである。


努力しても及ばない人がいる。
性格には生まれつきのものや親の影響を多大に受けたものがあり、自分自身の力ではどうにもならないことがある。


とある就職活動に対する評論に
大学に入ってからではもう遅い
というものがあった。


幼年期から思春期までが本当に重要
なのである。


極限まで頑張っても結果が出ない人は
生まれつき何らかの障害があるか、幼年期から思春期の間の子育てに何らかの問題があり、その結果性格に大きな影響を及ぼした
場合がある。
このような人は極限まで頑張っても結果が出ず、逆に鬱の症状を呈して潰れてしまう。


このような人は頑張っている間は気が付かない。
むしろ「努力が足りないから…」などとして、自己責任主義に走る傾向がある。
そして、マズローの欲求でいうところの自己超越の段階に足を踏み入れようとして、奈落の底へ落ちる。
いい例が雅子さまである。


かくいう私も同じで、自分の生まれつきのものを越えようとして、鬱の症状を呈した。
何が原因なのかを突き詰めるのに1年以上の時間がかかった。そして「自分ではどうにもならないところに原因がある」ことが分かった。


自己責任至上主義に走っている人たちよ、本当にあなたたちは「極限まで頑張った」経験があるのか。ただただメンタル不全に陥った人たちを嘲笑っているだけかもしれない。それともそのようにならないように、要領よく生きているだけなのだろうか。


もしそうだとすれば、「極限まで頑張る」ということをあざ笑うという、最低な世の中ということになってしまう。一連の若者の保守化傾向、夢を見ない、挑戦しない、ただ空気を読んで生きるという風潮につながっているのかもしれない。


こうなると「自分の人生はなんだったのか…」ということになってしまう。
少なくとも私が20代だったころ、90年代末期は
挑戦することこそ素晴らしかった
のである。同時に
ここまで不器用な人を排除するような世の中でなかった。
それほどまでに世の中が変わってしまったのか… 書いててむなしくなってきた。


このような世の中そのものにOECDから警告が出ているくらいです。